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スポット142 神功皇后は三瀬村で産まれ育ったトレッキングと米田良三説「九州王朝の長谷寺」

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スポット142 神功皇后は三瀬村で産まれ育ったトレッキングと米田良三説「九州王朝の長谷寺」

20171029

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


スポット140 太宰府地名研究会の神社トレッキングに参加しませんか? において、神功皇后の生誕地、生育地を探るトレッキングを行なう事をお伝えしましたが、これはその続編になります。


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特に、1119日に予定している 神功皇后の生育地を探る! トレッキング(佐賀県佐賀市三瀬村)では、神功皇后の両親である父 息長宿禰王(オキナガノスクネ)と母 葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)が住んでいたと考えられる(当然にも神功皇后もそこで産まれた?)佐賀県の北山ダム周辺の神社とそこに注ぐ初瀬川一帯を訪ねます。


勿論、神社ばかりではありませんが、肥前の東部から太宰府、久留米、八女、熊本、筑豊、豊前、豊後

…には多くの古代史の謎が封印されています。その一つにこの神功皇后の生育地もあるのです。

詳しくは、スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!“宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”をお読み頂きたいと思います。

まず、神功皇后の母親(神)とされる葛城高額比売命(カツラギノタカヌカヒメノミコト)ですが、この二神を主神とする神社がある上に三瀬村の東隣に脊振村があります。

そこに葛城一族の初期の拠点もあったように見えるのです(現佐賀県神埼市)。

ここには鹿路(ロクロ)という集落があり(コミュニティ・バスのバス停は「桂木」)一言主神社までがあるのです。


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実はこの地こそ故)百嶋由一郎氏が、“昔はここも「高良」と呼ばれていた九州王朝の中心的な集落であり、初期の九州王朝の安全な中心地であった(高良の表示も)”と言われている場所なのです。

付近には、旧背振村永江(表記が長柄ではなく小長江…だったと記憶していますが)があり、そのまま、葛城長江曾都毘古(古事記)(カツラギノナガエソツヒコ)を思い起こさせます。

ソツヒコの「ソツ」は、佐賀県旧牛津町(現佐賀県小城市)の牛津(ソツ)かも知れません。

それだけに、その後裔である葛城高額比売命は旧脊振村、旧三瀬村一帯にいたと思われる葛城一族の後裔である可能性が否定できないのです。

sp142-3一方、父親(神)の息長宿禰王(オキナガノスクネ)はひぼろぎ逍遥にリンクされておられる、「沖永氏は秋永氏である。」の顛末記というサイトにおいて書かれていますが、息長一族が現久留米市田主丸町一帯に拠点を持っていた事は確実で、その位置関係を考えると信憑性が極めて高いのです。


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野波神社縁起


勿論、神社ばかりではありませんが、肥前の東部から太宰府、久留米、八女、熊本、筑豊、豊前、豊後

…には多くの古代史の謎が封印されています。その一つにこの神功皇后の生育地もあるのです。

詳しくは、スポット131 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた!“宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”をお読み頂きたいと思います。

それだけに、その後裔である葛城高額比売命は旧脊振村、旧三瀬村一帯にいたと思われる葛城一族の後裔である可能性が否定できないのです。

一方、父親(神)の息長宿禰王(オキナガノスクネ)はひぼろぎ逍遥にリンクされておられる、「沖永氏は秋永氏である。」の顛末記というサイトにおいて書かれていますが、息長一族が現久留米市田主丸町一帯に拠点を持っていた事は確実で、その位置関係を考えると信憑性が極めて高いのです。

ここにお読み頂きたいサイトがあります。


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もう20年近く前に出された「法隆寺は移築された―大宰府から斑鳩へ」をご存じの方は多いと思いますが、九州王朝論者の中でも際立って異彩を放った米田良三氏は「長谷寺考」という実験稿を出されています。

「法隆寺は移築された…」にしても、同氏が東工大出身の建築の専門家であった事から非常に衝撃的で、その後も九州王朝の一部が畿内に移動して以降、徐々に自らの所有物である九州の多くの廃寺にが存在したはずの建造物を60年単位の改築に併せ随時移転して行ったのではないかと思わせるに十分な展開を描いたのでした。

米田氏は現在も建築の現場に関与されていると思いますが、十年ほど前から「長谷寺」さえもこの三瀬村と太宰府とを軸とした話であり、古典文学の再考を行う必要性があるのではないかとの一石を投入されたのでした。

その米田氏の応援サイトがAB&JC PRESSです。

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以下は米田良三の「長谷寺」などをネット上に宣伝している渡辺先生の引用ですが、ネット上にあるものからお知らせします。長谷寺があった場所の直ぐそばの下ノ宮、野波神社付近で神功皇后が産まれた可能性があるのです。

さて、倭国長谷寺の存在を証明する方法は色々あると思うが、いにしえの文学作品、絵巻の描写をもとに試みることができる。長谷寺参詣の話が登場するのは『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』等があるが、後世の写本がテキストであるとか、現在の場所に移築してからの長谷寺を念頭においての記述もあることから、正確さに欠ける分は割り引く必要がある。
 『源氏物語』のなかで玉鬘が初瀬詣でに向かうのだが、倭国の京(大宰府)から歩いて4日目の巳の刻に椿市に到着し、旧知の右近と再会する。そして右近と三条の会話の中で観世音寺が話題となる。京(大宰府)を出発した場合は神埼郡三瀬村の椿市で自然だが、これまでの解釈では京都を出発し、奈良の初瀬で九州の観世音寺の情景が共通の話題として出ることは不自然といわざるを得ない。この件につき古文の教師をしている高校時代の同級生に意見を求めたところ、フィクションはあくまでフィクションと問題にしなかった。
 『枕草子』の「初瀬に詣でて」を読むと「いみじき心おこして参りしに、川の音などの恐ろしう、呉階をのぼるほどなど、おぼろげならず困(こう)じて、云々」とあり、すぐ近くに川が流れている回廊をのぼる描写である。『五木寛之の古寺巡礼 ガイド版』によると、登廊は1042年につくられ、紫式部、清少納言の頃には「本堂までの参道は、境内東側にある急な坂道だった」とある。(倭国)清少納言が随筆の中でありのままを描写しているとすると、(平安)清少納言はありもしない呉階をでっち上げていることになる。
 徳川美術館にある「源氏物語絵巻」には無い長谷寺の場面が
ハーヴァード大学が所有している「源氏物語画帖」にある。構図に雲を加える洗練された描写で斜め45度のスカイビューである。現在の長谷寺と決定的に異なる点は、舞台の床板と屋根付き通路がほぼ同じ平面に描かれており、通路は登廊ではなく、愛知万博のグローバルルーフのような空中回廊と判断できる。つまり、回廊は初瀬川をまたいで架けられているのだ。当初、私は「画帖」にある登廊が本堂の前を通過していない点を米田氏に指摘したところ、本堂と回廊が同じ平面にあるという事の方がポイントであるという前記の答えを得た。我ながら、いいところに目をつけたものと自信たっぷりであったが、プロの建築家のほうが一枚上手であった。
 その回廊は舞台の右手に向かった後、左に折れ、長めのアプローチが本堂に向かう。この「画帖」が倭国の時代に描かれたにしろ、後世に模写されたにしろ、この場面は移築説でしか説明できないであろう。ちなみに、江戸時代に土佐光則によって描かれたとされる長谷寺の場面は現在のそれに似ているものの周辺の描写に乏しい。
 
米田氏が作成した説明付きの地図を見ると、本堂が建っていた丘、杉神社、回廊のターンする所、雲井坂、蛇行する初瀬川等すべて「源氏物語画帖」にあり、地図上X点から南西を見れば、私の作ったコラージュのごとく各々の位置関係はピッタリ一致する。さらに北には「宿」という集落があり、そこが物語に出てくる「椿市」であろう。戦前は住人も多かったと地元の人が言っていた。一帯はスピリチュアルな雰囲気が強く感じられ、最近ブームのパワースポットとも聖地とも呼ばれそうなところである。
 源氏物語マニアは是非行くべきであり、そこが元祖 〝初瀬の御寺〟 の抜け殻スポットであると実感するであろう。それにしても、この一帯が全くと言っていいほど開発の波に洗われなかったことは奇跡であり、まだこの国にはツキが残っていると息長足姫尊に感謝したい気持ちである。
 以上が倭国長谷寺跡発見のあらましである。
 りょうぞう&しょうぞうは日本史の根本をひっくり返す発見をしたのである。マスコミが本気で報道するのか、4月1日付けのトンデモ記事でお茶を濁すのか、今後の展開はしばらく高みの見物である。

 さて、倭国長谷寺の存在を証明する方法は色々あると思うが、いにしえの文学作品、絵巻の描写をもとに試みることができる。長谷寺参詣の話が登場するのは『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』等があるが、後世の写本がテキストであるとか、現在の場所に移築してからの長谷寺を念頭においての記述もあることから、正確さに欠ける分は割り引く必要がある。
 『源氏物語』のなかで玉鬘が初瀬詣でに向かうのだが、倭国の京(大宰府)から歩いて4日目の巳の刻に椿市に到着し、旧知の右近と再会する。そして右近と三条の会話の中で観世音寺が話題となる。京(大宰府)を出発した場合は神埼郡三瀬村の椿市で自然だが、これまでの解釈では京都を出発し、奈良の初瀬で九州の観世音寺の情景が共通の話題として出ることは不自然といわざるを得ない。この件につき古文の教師をしている高校時代の同級生に意見を求めたところ、フィクションはあくまでフィクションと問題にしなかった。
 『枕草子』の「初瀬に詣でて」を読むと「いみじき心おこして参りしに、川の音などの恐ろしう、呉階をのぼるほどなど、おぼろげならず困(こう)じて、云々」とあり、すぐ近くに川が流れている回廊をのぼる描写である。『五木寛之の古寺巡礼 ガイド版』によると、登廊は1042年につくられ、紫式部、清少納言の頃には「本堂までの参道は、境内東側にある急な坂道だった」とある。(倭国)清少納言が随筆の中でありのままを描写しているとすると、(平安)清少納言はありもしない呉階をでっち上げていることになる。
 徳川美術館にある「源氏物語絵巻」には無い長谷寺の場面が
ハーヴァード大学が所有している「源氏物語画帖」にある。構図に雲を加える洗練された描写で斜め45度のスカイビューである。現在の長谷寺と決定的に異なる点は、舞台の床板と屋根付き通路がほぼ同じ平面に描かれており、通路は登廊ではなく、愛知万博のグローバルルーフのような空中回廊と判断できる。つまり、回廊は初瀬川をまたいで架けられているのだ。当初、私は「画帖」にある登廊が本堂の前を通過していない点を米田氏に指摘したところ、本堂と回廊が同じ平面にあるという事の方がポイントであるという前記の答えを得た。我ながら、いいところに目をつけたものと自信たっぷりであったが、プロの建築家のほうが一枚上手であった。
 その回廊は舞台の右手に向かった後、左に折れ、長めのアプローチが本堂に向かう。この「画帖」が倭国の時代に描かれたにしろ、後世に模写されたにしろ、この場面は移築説でしか説明できないであろう。ちなみに、江戸時代に土佐光則によって描かれたとされる長谷寺の場面は現在のそれに似ているものの周辺の描写に乏しい。
 
米田氏が作成した説明付きの地図を見ると、本堂が建っていた丘、杉神社、回廊のターンする所、雲井坂、蛇行する初瀬川等すべて「源氏物語画帖」にあり、地図上X点から南西を見れば、私の作ったコラージュのごとく各々の位置関係はピッタリ一致する。さらに北には「宿」という集落があり、そこが物語に出てくる「椿市」であろう。戦前は住人も多かったと地元の人が言っていた。一帯はスピリチュアルな雰囲気が強く感じられ、最近ブームのパワースポットとも聖地とも呼ばれそうなところである。
 源氏物語マニアは是非行くべきであり、そこが元祖 〝初瀬の御寺〟 の抜け殻スポットであると実感するであろう。それにしても、この一帯が全くと言っていいほど開発の波に洗われなかったことは奇跡であり、まだこの国にはツキが残っていると息長足姫尊に感謝したい気持ちである。
 以上が倭国長谷寺跡発見のあらましである。
 りょうぞう&しょうぞうは日本史の根本をひっくり返す発見をしたのである。マスコミが本気で報道するのか、4月1日付けのトンデモ記事でお茶を濁すのか、今後の展開はしばらく高みの見物である。
 「法隆寺移築説」は支持されつつあるが、他の建築物については当然反論が予想される。しかし、n で言えることは n+1 でも言えるという「数学的帰納法」を思い起こせば、他の建築物にも疑わしいものもが数々ある。長谷寺のほかに薬師寺東塔と東院堂、東大寺南大門、平等院鳳凰堂、室生寺、興福寺の五重塔、知恩院の
鐘楼経蔵、東福寺三門、過日、解体修理が終了した唐招提寺金堂、何と桂離宮も移築されており室生寺、興福寺、東福寺、唐招提寺以外は元の所在地も見当がついていると言う。
 これだけ多くの日本(倭)国時代の世界文化遺産があることが公になれば、わが国に世界中から観光客が殺到するに違いない。のみならず、世界の人々のわが国を見る眼も変わるし、何より日本人のプライドが復活することが喜ばしい。
 昭和40年ごろ中央公論社から『日本の歴史』という全集が出版され、大ベストセラーとなった。古代の部分はあこがれのM.I.K.N.両教授の執筆であったが、彼らは唐による日本の占領があったという事実を知っていたのだろうか。知らなかったのなら随分怠慢であるし、知っていたのなら国民に大嘘をついていたことになり、いずれにせよひどい話ではある。父の遺品の雑誌にみつけたR.T.氏の文章(日本古代の都城)にある歴史観では外交面で中国に太刀打ちできるものではなく、本書のタイトルに 〝現代を解く〟 と付けた著者の意図が痛いほど理解できるのである。    (完)

三瀬 それは奇跡のパワースポット
 この界隈は全く開発されておらず、倭国長谷寺を偲ぶことができる夢のような聖地である。江戸時代には、
善正寺からは鐘楼が、萬福寺からは経蔵が京都知恩院に移築された。丘の上には長谷寺本堂があった。丘の上に礎石が並んでいることが確認されれば、この仮説は限りなく定説に近づく。しかし、どういうわけか丘に登るルートが定かではない。山門は謎が多いが、倭尺で作られておれば、この地にあったと考えられる。倭国時代の元祖 紫式部、清少納言はこの鐘の音を聞いていた。同じ音を現代人は知恩院で聞くことができる。
○ 三瀬村 再訪
 2014年11月2日、三瀬村を訪れました(3度目)。
 1度目は長谷山観音寺跡の調査。その時「宿」は直感的に椿市であろうと閃きました。
 2度目は倭国時代の長谷寺の所在地の見当がついたところで、確認のため、米田良三氏と訪れました。
 3度目の今回は友人5人と「大人の修学旅行」。私がガイドです。
 あらかじめ善正寺、萬福寺に『長谷寺考』を郵送しておき、住職にお会いするつもりでしたが、両寺とも住職は不在で、お庫裏さんとお話しました。お二人とも各々、「その昔、鐘楼とか、経蔵があったという言い伝えは聞いていない」とのこと。私は「今後、古代史に興味のある人たちが訪れる機会が増えると思うので、『長谷寺考』を読んでおいて下さいと伝えました。善正寺の階段を上がると、そのスペースは知恩院の鐘楼のサイズが(現在の建物を取り除いた場合)ちょうど載っかるイメージでした。石垣は学校で習う「城の石垣の変遷」と対比した場合、戦国末期から江戸初期のものと解釈したくなりますが、かなり緻密な石組みが、あのような山中にある事からして、石造文化の発達した倭国の時代のものと確信しました。
 ご存知のように、倭国長谷寺では本堂と経蔵が近接して建っていたと米田氏が解明しておりますが、大和長谷寺本堂の外周の石畳のデザイン、その石材の材質ならびにサイズ、柱・扉・礎石の形と質感を知恩院の経蔵のそれと比べてみてください。さしずめ、同一の工務店が工事を担当したという印象です。
 昼食はかつて玉鬘も歩いたという(旧)椿市のメインストリートに面した築150年の家屋を改築した「じゅげむ」という麺処でいただきました。紀貫之が「人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」と詠んだのもこの辺りであると思うと感無量のものがあります。
 この「宿」は街道に沿って紡錘形に発展した集落で、このお店以外にもしっかりした造りの古民家が並んでおり、大昔からの集落と考えられます。戦後しばらくの間、宿屋が数軒残っていたといいます。三瀬で宿泊する意昧がどこにあるのか現代の感覚では捕らえにくいのですが、倭国時代以来の門前町の伝統がかすかに残っていると考えます。集落の西の端に初瀬川が流れており、その辺りに船着場があって、椿の積み降ろしが行われていたのかもしれません。念入りに発掘すれば500年代の椿油の容器などが出てくるような気がします。

三瀬村は世界中の人々があっと驚くエリアです


『源氏物語』玉鬘の巻の舞台


『源氏物語』は通説より約350年昔、倭国の時代の京(大宰府)での出来事にフィクションを織り交ぜて書かれました。大和朝廷は邪馬台国に続く九州王朝を無かったものとして、ひそかに倭国の文明をパクって我がものとしています。平安時代の『源氏物語』はオリジナル『源氏物語』の改作であり、作者の紫式部も“成りすまし”です。
 早良街道が整備される以前の集落“宿”には、戦後しばらく数件の宿屋があり、このような山中での宿泊施設としての存在意義は分かりづらいのですが、倭国以来の伝統が残っていたのかもしれません。実はこのエリアは長谷寺の門前町である“椿市”なのです。この店の前を玉鬘のモデルとされる人物、紀貫之、清少納言(倭国時代の本物)が歩いていたのです。紀貫之は「人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」をこのあたりで詠んだものと思われます。
 長谷寺はどこにあったのでしょうか?
 驚いたことに、この「宿」と目と鼻の距離です。
 「宿」から南下すると右手に杉神社が現れます。此処を起点に地図を見ると理解しやすいでしょう。


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この一帯の面白さは、まず、初瀬川が北山ダムに注いでおり、その河畔に長谷寺があった可能性を米田氏が指摘しているのです。長谷寺は慣用句として「ハセデラ」と呼んでいるだけで、長谷は「ハセ」とは読みませんね。やはり「ナガタニノハツセガワ」なのです。

初瀬川の河畔に長谷寺への桟橋、回廊の橋脚があったならば、と、その礎石が存在していた可能性があったのではないかと十人足らずのパーティーで78年前に現地に入りましたが、残念なことに圃場整備などによって確認はできませんでした。しかし、国土地理院が公開していた米軍のB29による爆撃のために空撮された偵察写真などによれば礎石らしきものが白く映っていました。

山中にも入り掘立柱でない限り礎石があるのではないかと探しましたが確認できませんでした。

あるとしても、恐らく土に埋もれており確認には至らなかった事を記憶しています。

鏡神社の主神は神功皇后です。恐らく彼女は三瀬村にあった九州王朝の長谷寺を知っていたはずなのです。(古川)

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中央の丘の上にあった長谷寺本堂は721年奈良県に移築されています。現在の大和長谷寺については、室町時代の観音様が江戸時代の本堂に収まっているとされますが、大嘘で、共に517年に完成したオリジナルです。法隆寺より古いのです。
 本堂跡の南に、石垣の上に建つミニ寺 善正寺がありますが、倭国時代は、そこに長谷寺の鐘楼がありました。日本一古く、大きい鐘が江戸時代のはじめまでありました。現在の“ゆく年くる年”で有名な京都 知恩院の梵鐘です。1678年に移築されたのです。元祖 清少納言もあの鐘の音を聞いていたと思うとワクワクしませんか?
 本堂の北西の萬福寺エリアのどこかに経蔵が建っていました。1621年移築されて現在、知恩院の鐘楼の近くにあります。
 杉神社、鏡神社も相当古く517年の長谷寺の創建より古いものです。 想定される回廊の出発点としての三門跡は現在、石垣で一段高くなった畑となっています。
 上記スポットの間を蛇行して走る川の名は昔から初瀬川です。
 以上を裏付けるものとしてハーヴァード大学の所有する「源氏物語画帖」玉鬘があります。大和長谷寺ではマッチしない点が多々ありますが、三瀬村のバードビューでは各々の位置関係はピッタリと一致します。


 

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 まだまだ、九州には多くの謎がゴロゴロ転がっています。○○研究会とか、○○古代史の会の様にフィールドに出ない方には古代は探究できません。AB&JC PRESSを是非お読み頂きたいと思います。


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