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506二里の松原と虹の松原

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506二里の松原と虹の松原

2017071520110921)再編集

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


佐賀県の玄海灘側に位置する唐津市には日本三大松原、延長八~九キロにもなる松原があります。この松原を「虹の松原」と呼ぶのですが、藩政時代(寺沢氏時代)には「二里の松原」と呼ばれていました。もちろん、二里(約八キロ)はあったから名付けられたものなのでしょうが、これについては「街道をゆく」(肥前の諸街道)で、司馬遼太郎も、“夕日に映える海岸線が湾曲し虹のようにも見える”と言った表現を残しています。しかし、どうもそうではないような気がするのです。


もとは、「二里ノ松原」とよばれたらしい。秀吉の時代に大名にとりたてられた尾張人寺沢広高が、この唐津城主となって、城を築き防風林として松原をつくった。

   唐津城主は、寺沢氏のあと、徳川期には異姓の氏が頻繁に交替した。江戸中期までの記録には「二里ノ松原」とあるそうだから、江戸期のいつごろからか、唐津人が誰が言い変えるともなく「虹の松原」と言い習わすようになったらしい。


『街道をゆく』11 肥前の諸街道(司馬遼太郎)


「街道をゆく」を読んだ時は全く違和感がなかったのですが、敬愛する司馬氏の言といえども疑って掛かるのが古川定跡です。

根拠は極めて単純なものでした。佐賀県の西半分から長崎県に掛けてはRの発音がDの発音に入れ替わることが良くあるからです。

一例を上げると、リポートⅡに掲載した 63.“ハゼンダの海に湧く泉”にこのように書いています。


奇妙なタイトルですがそのうち分かってきます。JR長崎本線に沿って国道二〇七号線を諫早、長崎方面に向かって走り、太良町(佐賀県藤津郡)の中心を通り抜けると、右手に鉄橋が入江を渡っている所が見えてきます。波瀬の浦(太良町糸岐)です。

「波瀬の浦」とされていますが、地元では「ハゼンダ」としか呼んでいません。五キロほど先に同じく“カメンダ”(亀ノ浦)がありますので、“浦”を“ダー”呼んでいるのは間違いなく、“ラ”を“ダ““ダー”と発音しているのです。この地は長崎、佐賀の県界に近く、辺境からか、R音を嫌う古代の日本人の発音の一端が色濃く残ったものではないかと密かに考えています。


“二里”の松原から“虹”の松原への表記の変遷が、もしかしたら、ニリとニジ、NIRINIDINIZI)、つまりR音とD音の入れ替わりから来ているのではないかという事に気付いたのはつい最近のことでした。

そもそも、“ライオン”を“ダイオン”“ラッパ”を“ダッパ”などと発音するのは幼児語のように思われています。尻取り遊びでも分かるようにラ行の単語が少ないことは日本語の特徴ですが、それは、元々、ラ音を語頭に使用しなかった日本語の生理のようなものであり、ここ、唐津でも残ったものと考える事ができるのです。

もしも、私の推測が正しければ、藩政時代(唐津藩は寺沢氏=外様から大久保、松平、土井、水野、小笠原氏と譜代の五氏が入れ替わる)に、延長一〇キロに近い海岸線をもって“二里の松原”と呼ばれたものが、いつしか現地の人々の土着性によってR音を嫌う傾向が力を発揮し、いつしか、ニリがニヂ(ディ)と変わり、表記が“二里”から“虹”に変わったのではないかと考えるのです。もちろん、土地の人々は元から「ニディノマツバラ」と呼んでいただろう事は想像に難くありません。

最後に、私の推定では信用できないという向きには、高名な民俗学者の引用で答えたいと思います。


西日本殊に九州あたりの人々は正確にはR子音を発音し難く、漁師などには、リョウ又はリュウと発音している者は少なく、ジュウゴサンと謂って十五夜と混同して、月の十五日を祭日にしている所もある。


「龍王と水の神」(『定本柳田国男集』第二十七巻(筑摩書房)柳田国男


ついでに付け加えておきます。まず、博多んもん以外には全く分からないと思いますが、角(カド)のうどん屋のことを現地ではカロのウロン屋などと言います。R音とD音の入れ替わりの話をしましたので、この話をしないと片手落ちになります。ただ、ここでは逆にD音がR音に入れ替わっているのです。

余談ですが、ほんのしばらく前までの話ですが、博多駅の地下街には「カロ」と言う名の和風レストランまであります。確認してはいませんが、恐らくこれも角(カド)の意味だと思います。そして、実際に地下街の角にあるのです。


506-1

※ その後、博多駅の地下街の「カロ」は同店を経営されている某酒造メーカーのブランド名「花の露」が「カロ」とも読める事から付けられたものと知りました。何度か利用していますが、私は饅頭党(甘露党)でカラ党では全くないために勝手な思い込みをしていたようです。こういうことが多々あるのが地名の世界なのかもしれません。


 と、ここまで書いた後に、佐賀新聞に松浦史談会の山田 洋氏による「江戸時代には二里の松原とも」という虹ノ松原の呼称に関する記事が掲載されました。 以下全文掲載↓


506-2

2009年(平成21年)211日付け「佐賀新聞」


ここで、注目すべきは巡検使と名護屋の大庄屋松尾兵衛門とのやり取りです。

 巡検視から距離を尋ねられた兵衛門が「およそ一里四丁ございます」と答えたら、巡検使は不思議そうな顔をして「浜崎では二里と申したぞ」と聞き返してきた。これに対して兵衛門は「虹ノ松原を取り違え二里の松原とも申し候故、ふと二里の松原とも申し上げ候わん」と答えている。つまり「虹の松原のことを取り違えて(聞き間違えて)二里の松原と申す者もいるようなので、浜崎で答えた者も二里と取り違えていったのでしょう」(この部分も山田氏)と答えているというのである。

 おぼろげながらも、ここから分ることは、海人族の拠点とも言うべき名護屋組の大庄屋になったという兵衛門が“虹ノ松原が二里の松原と取り違えられた”という認識を持っていたようだという点です。

司馬氏が“江戸中期までの記録には「二里ノ松原」とあるそうだから、江戸期のいつごろからか、唐津人が誰が言い変えるともなく「虹の松原」と言い習わすようになったらしい。”と書いた根拠を探ることは困難ですが、虹が二里に変わり再び虹に戻ったものなのか、二里が虹に変わったのかは興味が尽きません。

もちろん、司馬は、それ以前もそうだったとしている訳ではないでしょうが、私には、司馬が書いたように、江戸中期までの「二里ノ松原」が「虹の松原」に変わったと考えることにも不安が残ります。

全国には、九十九里浜、七里ケ浜(鎌倉)、千里ケ浜(平戸)と里を含んだ海岸地名が散見されます。従って、江戸期以前から二里ノ松原と呼ばれていたという可能性は十分にあるでしょうが、このような海岸地名は、通常、地元の海洋民によって付されることが多いはずです。

ただし、言い過ぎかもしれませんが、古来、海洋民は学問とは縁が薄かったと思われることから、表記は、支配階級側(寺社、武家)で行なわれたと考えてしまうのです。

もしも、天領としての唐津が外来の支配に晒され続けてきた地と考えることが許されるなら、呼び手側と書き手側の発音と聴き取りの問題とも考えられそうです。

 確かにR音はD音より発音しにくい上に、元々、日本には語頭にR音が来る単語が少ないことは、尻取り遊びで、R音で行き詰ることでもお分かりになるでしょう。

 二里のR音「リ」が現地の人々によって好んで使われていたとは考えにくいことから、古来、「ニディ⇒ニジ」の松原と呼ばれていたのではないかとまでは思ってみたのですが、無論、決め手はありません。

 一方、朝鮮半島には「リ」と発音される里の付された地名が無数に存在することはご存知でしょう。漢音を基調とする官学たる儒学、朱子学が朝鮮半島からもたらされたことを考える時、R音は大陸、半島からもたらされ、それが、書き手に反映された可能性はあるかも知れません。

 しかし、そこまで言えば、半島と絶えず往来してきた倭人、海人族、松浦党の人々にそれが持ち込まれていないのも不思議と言えそうですが、半島の倭人の領域にはR音はなかったのかも知れません。皆さんは、どのようにお考えになるでしょうか?

 答えを出すつもりで書き始めたものの、返って混乱を深めてしまいました。

結局、「西日本殊に九州あたりの人々は正確にはR子音を発音し難く、漁師などには、リョウ又はリュウと発音している者は少なく、ジュウゴサンと謂って十五夜と混同して・・・」とする柳田説をそのまま受け入れるならば、江戸期に入り始めて二里ノ松原とお上から命名された「ニリ」ノ松原を苦心惨憺のうえ「ニディ」ノ松原と発音し、いつしか虹の松原と書き呼び慣わすようになった。としておけば、これ以上、不必要に思い悩む必要はないのかも知れません。恐らく、これが正しいのでしょう。


なお、冒頭に書いた「延長八~九キロにもなる松原」と兵衛門が「およそ一里四丁ございます」と答えたことに齟齬を感じられる方もおられるかも知れません。これは、山の針葉樹林化による土砂の流出の増大と不必要な埋め立て、堤防の建設の結果、海岸線が海側に出たことによるものと理解しています。


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