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508 雑餉隈(ザッショノクマ)“鴻艫館(コウロカン)に先行する古代饗応処への仮説”

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508 雑餉隈(ザッショノクマ)“鴻艫館(コウロカン)に先行する古代饗応処への仮説”







2017071520110921)再編集







太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


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天拝山より雑餉隈を望む(写真提供:松尾紘一郎)


福岡市に雑餉隈(ザッショノクマ)という気になる地名があります。

 全国的にも全く類例がなく、地名研究者(地名採集家?)の間でも、出雲の十六島(ウップルイ)などとともに良く取り沙汰されているようです。

雑餉隈を考える前に、一応は“隈”地名についてふれておく必要があるでしょう。

福岡県(金隈、月隈、七隈、干隈、道隈・・・)、佐賀県(日の隈、鈴隈、早稲隈、山隈、帯隈・・・)を中心に、熊本県から九州全域で数多く確認できる地名です。

結論から言えば、隈とは、山から流れ込んだ小河川、海や湖や別の川や河などと出合うような邂逅部に付けられる地名であり、そこでは流速が落ちることから堆積が進み小平野が形成されます。九州では普通にあるもので、それほど珍しいものではありません。

このため、ここで「隈」について詳細に取り上げることは致しませんが、あまり問題にされない別の側面から重要な特徴についてふれておきたいと思います。

一般的に、このような隈地名が付される小平野は山からの水が小川として流れ込むため水を得易い(利用しやすい)く、そのことから稲作が最初に行われた可能性が高く、従って古代においても早い段階から人口の集積が認められた場所ではないかと考えます。

大河では巨大な取水堰を造ることが必要になり、その維持ともあわせ、後世にならなければ水を引くことができなかったのです。裏返して表現すれば、稲作は決して低地の大平野では開始されなかったのです。


クマという地名用語は、『岩波古語辞典』によれば、(1)湾曲しているものの曲  り目。(曲)(2)奥まったところ(隈)。(3)暗く陰になっているところ(山かげ、 阿)。・・・

『古代地名語源辞典』楠原佑介ほか編著


雑餉とは何か?


 さて、肝心の雑餉です。福岡市に隣接する大野城市に雑餉隈町(西鉄大牟田線の雑餉隈駅とJR鹿児島本線南福岡駅は福岡市)がありますが、「雑餉」については一般になじみのない言葉だと思いますので、多少の説明が必要になります。

私はこれまで佐賀県でも有明海沿岸で多く仕事をしてきました。このため、この地域の言葉と日常的に接してきたのですが、ここには、方言と言うよりも鎌倉時代や室町時代に通用していた言葉、さらに、それ以前から使われていたのではないかと思われる古語が数多く残っているのです。

そのひとつに“オザッショウ”がありました。現地で使われているのは“お御馳走”というほどの意味でしたが、仮に眼の下三尺の大鯛が手に入ったとしましょう。もちろん皆が話しているという意味ではありませんが、六十代以上では、現在でも「今日は“おざっしょう”たい(ばい)!」などと使う人が散見されるのです。


ざっ・しょう(・・しやう)

【雑掌】

 律令制下、諸官衙に属して雑務をつかさどった者。

(『大辞林』)

ざっ・しょう(・・シヤウ)

【雑餉】

もてなしのための酒や食物。雑掌。日葡辞書「ザッショウヲヲクル」


雑掌。が出てきましたので、「雑掌」も見てみますと、


ざっ・しょう(・・シヤウ)

【雑掌】

 古代・中世に、国衙(こくが)・荘園・公卿・幕府などに属して、種々の雑事を扱った役人。特に訴訟に従事したものを沙汰雑掌という。雑掌人。

 近世、公家の家司(けいし)の称。

 1872年(明治5)宮内省に設けられ、宮中の雑役をつかさどった判任官。86年廃止。

 雑餉(ざっしょう)に同じ。

(『広辞苑』)


現地の雑餉隈は“ザッショ”と呼ばれています。“ザッショウ”と“ザッショ”の違いはありますが、“ザッショ”は“ザッショウ”のウ音の脱落したものと考えてまず間違いないでしょう。さらに、“ザッショ”は“ザッショッ”のようにも聞こえますので、促音化も認められるようです。


貝原益軒の雑餉隈


雑餉隈については、貝原益軒の『筑前国続風土記』に記述があります。それほど踏み込んだものではないのですが、それなりに当時の雰囲気が伝わってきます。

この『筑前国続風土記』については、インターネット上に中村学園のサイトが公開されており、検索も可能な形で全文が読める上に印刷もできますので、まずは、皆さんも活用されることをお勧めします(昼休みに『筑前国続風土記』を…)。


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さすがに、敬愛やまぬ益軒先生は「品々酒食をあきなう太宰府官人の雑掌居たりし所なるか、いぶかし。…」とされているなど今更ながら感服します。

さて、大野城市雑餉隈町は御笠川と諸岡川に挟まれた低地の延長上にあります、さらに、水城の大堤の外側に位置しているのです。この点が重要だと考えています。

まず、雑餉隈の隈に多少の違和感を持ちます。

前述したように、隈は山からの小河川が海や湖とぶつかる、従ってその地に形成される小平地に付される地名です。金の隈、月隈を持ち出すまでもなく、小山と平地の境界に並んでいます。そう考えると、雑餉隈は御笠川と諸岡川という二つの河川に挟まれたところにあることからその縁とするべき小山がないのです(後で諸岡川は最近になって放水路として開削されたことが分かりましたが…)。つまり御笠川との後背地には水城しかないからです。

唯一、説明可能な考え方は、そこに古博多湾、後代には仮称板付湖ともいうべきものが存在していた思われることです。つまり、古博多湾にぶつかって形成された汀線内側の土地こそが雑餉隈であったとしか思えないのです。

説明する必要もないはずですが、板付は板付遺跡の一角を除き大半が浅い海か湿地帯でした。それは明治33年の陸軍測量部制作の地図にも集落が全く存在していなかったことからも推測できますし、半世紀前までは大雨が降ればこの一帯は文字通り海と化していた低湿地帯だったと話す人がいますので、古代(ここでは、一応、紀元前後を念頭においています)には直接に海が、後代にも最低でも巨大な汽水湖(潟湖)が広がっていたと考えられるのです。

確か九州大学の研究にこの古代の博多湾に関する研究があったと記憶していますが、ここでは、地名からのアプローチを行います。

その湖(古くは当然博多湾)における水平堆積によって形成された平地こそが、現在の福岡空港であり、大野城から水城までの平地なのです。

つまり、その大水(たいすい)に御笠川が直接注ぐ場所こそ雑餉隈だった、もしくは、そういう時代に成立したのが雑餉隈という地名だったと言えるのではないでしょうか。

もう一つ別の側面から考えてみましょう。まず、空港東の青木には北ノ浦池、月隈には浦田という字が、青木には雑餉隈の北、一〇〇〇メートルと離れない金隈の金隈遺跡辺りに、観音ケ浦池、持田ケ浦池、大浦池があり、乙金にも桑ノ浦公園というものまで拾えます。一見、これらは全て古博多湾の湾奥締切り型ため池に見えます。

さらに、県道水城臼井線に堤浦というバス停があるばかりか、御笠川左岸には痕跡島地名の仲島(市教委の資料参照)があり、最奥部の太宰府インター付近にも鉾ケ浦、光ケ浦が拾えます。これらの浦、島地名は湾から湖に変わっていく時代に形成されたものであることは、まず、間違いないでしょう。

良く知られる縄文海進期とは別に弥生の小海進期があったとされています。海水面が一メートル程度上がるものですが、その時代にもかなり奥まで波が洗っていたと考えます。 

それについては地探やボウリングによる海成粘土の分布などを調べれば分かるはずですが、既に存在しているはずの地質学的調査報告書を拾う必要があるでしょう。

話が拡散しますが、実は水城の内側、都府楼の背後にも安ノ浦、松ケ浦という二つのため池があります。言うまでもなく、『日本書紀』には「大堤を築き水を蓄えしむ…」と書かれています。

これが水城に水が蓄えられた結果成立した地名なのか、縄文海進期の湾奥なのか判別できずにいます。現状を水準測量するだけでもかなりのことが分かるはずなのですが興味は尽きません。嵩上げなど形状は変えられているものの、湾奥締め切り型ため池の標高は拾い出しを行うべきでしょう。

いずれにせよ、雑餉隈が、直接、古博多海湾に洗われていた時代があったことだけは間違いがないはずです。

そして、さらに奥へと延びる御笠川によって太宰府へと入っていったと考えます。


参考


仲畑地区と福岡市博多区井相田にまたがる弥生・古墳・奈良時代の集落遺跡である。昭和54年度から発掘調査が行われている。この遺跡から弥生土器・土師器・須恵器・木器などの日常生活用具、弥生時代の石器などが出土した。昭和55年度の調査では人面墨書土器、56年度には貨布、64年度には移動式竈が出土した。

   仲島遺跡の東端部、御笠川の氾濫原の砂の中から3点出土した。人面墨書土器は奈良時代から平安時代初めにかけて見られる宗教的な儀式に使用されたと考えられる土器で、最も多く出土するのは奈良時代の都である平城京であるが、九州では仲島遺跡以外には、佐賀市と大宰府の出土例が知られるのみである。疫病神を思わせる人面が墨で描かれ、底部には穴が開けられている。病気になった人が土器に息を吹き込み、川や溝に流して災いから身を守ったと考えられ、出土場所も川や溝の中といった水辺が多い。

仲島遺跡 人面墨書土器(仲島遺跡出土) 市指定有形文化財


 貨布は中国「新」の時代に発行された青銅製貨幣で、長さ約5.8cm、最大幅2.3cmである。古代の農工具のひとつである鋤の形を現したもので、片面に篆書体で「貨」(右)と「布」(左)の文字を鋳出しているため貨布と呼ばれている。発掘調査での出土は大野城市の1例だけである。前漢末期、皇帝の親類に当る王莽は皇帝を暗殺し、天下の実権を奪い取り、国名を「新」と変え、元号も始建国元年と改めた。王莽は様々な経済改革を行ったが、その一つに新貨幣の発行がある。貨布・貨泉・大泉五十・小泉直一など全部で30 種近くもの貨幣を発行した。これらをまとめて王莽銭という。王莽の政策は古代国家を理想とした非現実的なもので、社会経済を混乱に陥れることになった。このため各地で反乱が起こり、23 年には王莽の「新」は滅んだ。仲島遺跡からは、この他にも青銅製鋤先や銅鏡などが見つかっていることから、一般的な集落ではない、権力を持った人々が存在する集落であったと考えられる。


「私たちの文化財」大野城市教育委員会


都市化し宅地化が進んだ現在を表す地図では昔の形状が掴めない


もちろん海図の作成は海軍水路部になりますが、明治33年に陸軍測量部(現国土地理院)によって作られた二万分の一の地図があります。

山岳地域は除外されていますし、必ずしも九州全土をカバーしたものではありませんが(散逸の可能性もありますが分かりません)、人口集積地を中心に作られており、当時のものとしては非常に貴重なものです。

現在、福岡県下の主な図書館(箱崎、小郡、久留米…)には保管されていますので、関心をお持ちの方は探されたらいかがでしょうか。

大変すばらしいことに、この地図には都市区画整理やほ場整備事業の河川、ため池、農地、水路、道路、集落などがそのまま表現されており、約百年前の形状が簡単に確認できるのです。

大規模に地形を変えることなど全くできなかった時代の地形がタイム・カプセルのように閉じ込められているもので、この多くの川や道は弥生時代にまで遡るものがあることは言うまでもありません。

誤解を恐れずに言えば、百年前の図面というものは、千年単位の古形が反映されているかもしれないのです。


鷺艫館のはるかに内陸側に雑餉隈がある


鴻艫館(こうろかん)を対外的(もちろん、中国、朝鮮、粛慎…を始めとする国際的な)迎賓館とするとき、さらに太宰府の懐近く内陸側に位置する雑餉隈という地名は、同じ性格を持ったもののように思えます。

そこで考えるのですが、鴻艫館(こうろかん)を百歩譲って、七~十一世紀のものだったとしても(通説では、『日本書紀』に、六八八年新羅からの外交使節を筑紫館/ちくしのむつろみ/に迎えたという記述が認められます)、さらに遡ぼる古代(仮に三~六、七世紀)においても、博多港(那ノ津)に入った中国や朝鮮からの賓客を受入れ饗応する迎賓館や役所があったはずで、仮に卑弥呼に謁見した中国側の使者を受け入れる施設が存在しなかったとは到底考えられないのです。

まず、危険がない程度まで武装解除することや、検疫の面からも、また、賓客自体を休養させ、疲れを癒して太宰府の高官と接見することからも、一旦、留め置き、安全を確認した上で許可が出され、後に古代の王都か最低でも副都であったはずの太宰府に入ったと考えるのが常識的でしょう。

もちろん、国賓クラスは別だったのかもしれません。いずれにせよ、使節団の中級クラスの要員のための公式の饗応所があったと考えることは不自然ではないように思えます。

ここで、重要になるのはその時期です。

邪馬壹国はもとより、八世紀まで大和政権に先行する独立した王権が存在したと考える人々が数多く存在することからすれば、『日本書紀』の記述は、そう書いてあるだけで、さらに遡ぼる古代(仮に三~六、七世紀)においても博多港(那ノ津)に入った中国や朝鮮からの賓客を受入れ饗応する迎賓館ないし役所があったはずなのです。

仮に倭の五王や卑弥呼に謁見した中国側の使者を受け入れる施設が存在しなかったとは到底考えられないのです。

もう、二~三十年前になりますか?福岡市市教委は当然にも鴻艫館の発掘調査を行っています。ただ、昨年、九州国立博物館において講演された内倉武久氏(『太宰府は日本の首都だった』『神武と卑弥呼が語る古代』ほか/ミネルバ書房の著者 朝日新聞記者として、奈良、京都、兵庫、島根、香川、和歌山、福岡などで取材活動。一九八七~九二年版『朝日年鑑』「文化財・考古学」欄出筆)の講演内容によると、市教委が発掘調査したもののなかで公表していないものに、鴻艫館のトイレットの最も底から発掘された用便用の木箆のC14調査データがあったというのです。その数値は実に四三〇年を示していたのです。 

一番の底から採取されたものだけに、この迎賓館が建設された当初のものである可能性が極めて高く、何でも『日本書紀』に刷り合わせをしなければ予算が確保できないことから、不正確なデータとして表に出さなかったもののように思われるのです(実際には隠している)。もちろん、都合が良いものは金科玉条のごとく扱うのですが、これが考古学界の実情なのです。

恐らく、鴻艫館は四三〇年前後の迎賓館だったのでしょう。してみると、大量の製鉄による急激な陸化が進む中で、沖合に移された鴻艫館に対し、水城の大堤に近い雑餉隈迎賓館(仮称)は三世紀の卑弥呼、さらには一般的に「漢の倭の奴…」と誤読される、後漢の光武帝の時代にまで遡るものであると想像することは理にかなったもののように思うのですが、雑餉隈から鴻艫館クラスの遺構が発掘されるなど特段の根拠があって申し上げているものでないことはいうまでもありません。

今後、時代ごとの陸化のデータや地層の断面などのデータを積み重ね、他に類例のない雑餉隈という地名をさらに浮かび上がらせたいと考えるものです。

最後になりましたが、菅原道真は九〇一年に大宰の権帥に左遷されます。道真はどこで船を下りたのでしょう。水城の傍に老松神社がありますが、縁起「老松神社由来」によると、

「…創建の由来は明らかではありませんが口伝によると菅原道真公が大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷され九州にお下りになった時博多より御笠川を船で上られここ水城の渡しに上陸されついで水城の関を通り国分の衣掛天神の所で汚れた旅衣を改められ大宰府にお入りになったと伝えられています。その水城の渡しの跡が当社社殿裏に残っています。…」と書かれています。また、同じく大野城市中畑の仲島にも上陸伝承がありますので、雑餉隈辺りまで博多湾、もしくは巨大な汽水湖(仮称板付湖)が広がっていたものと考えています。


船員たちはどこに待機させられていたか?


では、最下級の水夫(カコ)、戦闘員などはどうだったのでしょうか?

私は今宿の女原(みょうばる)辺りではなかったかと考えますが、無論、特別の根拠があっての話ではありません。

 船上勤務という危険な仕事によるストレスからの解放、言葉が通じないことなど、船員の扱いは最も注意が必要になります。


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都府楼跡(写真提供 松尾 紘一郎)


余白がありましたので、テーマとは無関係ですが掲載しました。

都府楼の意味はこの地に都督が居住していた以外にはありません。

『宋書』によれば、倭の五王として最も著名な武は安東将軍倭国王を受け、「(武)詔して武を使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す」と、都督を追認されているのです。この都督が置かれた場所こそ倭国の王都があった場所であり首都であったということは明白ではないでしょうか。

 

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