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510 玉 来(タマライ)

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510 玉 来(タマライ)

再編集2008041320170716

太宰府地名研究会 古川 清久


なかなか気付かない地名ですが、黒川温泉がある熊本県の南小国町中原の南に延びた谷間に玉来(タマライ)という地名があります。

まず、何のことだか全く分からない地名の一つになるでしょう。

しかし、既に、明治時代に見当を付けていた人がいるのです。言うまでもありませんが、民俗学者の柳田國男です。

「豊後竹田町の西一里に玉来という町がある。湯桶訓(ゆとうよみ)の珍しい地名であるから、その後注意しているがいまだ同例を見ない。」(「地名の研究」)としています。

音訓混用ですから、まずは当て字と考えられますが、ここを流れる玉来川は産山村の湧水池から端を発し豊後への境を越え柳田が見た竹田の玉来に流れ下っているのです。

思うに、この川の名は流れ出す産山の湧水池辺りではなく、この玉来の地名から付されたもののようです。

510-1

一般にはこの豊後竹田の隣駅「玉来」が知られているようです。

さらに南の波野村に「上玉来」があり、熊本市の南、天君ダムの上流、御船町の田代地区にも同様の地名があります。

どうやら、この地名は阿蘇外輪山の外縁部といった所に集中しているようです。

基本的に地名は固有名詞の類ですが、ここまで揃うと、やはり一つの地名群と考えざるをえません。

そうなれば、なんらかの共通の意味を持つことが推察され、普通名詞の性格も持たされたものと言っても良いことになります。


510-2

結論を急げば、柳田は狩のために人が集まった場所「狩溜ライ」だと考えていたのです。そして、その弟子とする谷川健一も「列島縦断地名逍遥」において、やはり-狩りの集合地-としています。

狩のために集まる場所「狩溜ライ」です。「タマリ場」は普通に使われる言葉ですが、集まることをタマルと言い、この一帯では「リ」を「ライ」という音により、溜まる所と表現する向があったのでしょうか?

ともかくも「タマル」と言う動詞から「タマライ」が派生したのでしょう。

そして、地名が形成されるかなり古い時代、阿蘇外輪山の裾野では、狩のために集まる場所をタマラウ(タマル)ところ「タマライ」と呼び、いつしか「玉来」と表記されるようになったのです。

地図をご覧になれば、この地名は例外なく人里から離れたところ、しかも谷地であることが分かります。

豊後竹田の玉来駅は例外的に玉来町とも呼ばれ、今は人家が集まっていますが、一般的には人家も疎らというよりも全くないに等しい場所にこの地名があるのです。

510-3

竹田市JR玉来駅

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高森の上玉来は、まさにそのような場所であり、国道57号線で外輪山を越え波野に入り、道の駅先の笹倉交差点を右折し大型の広域農道で高森の草壁吉見方面に向かい高森町に入ると「上玉来」に辺りに辿り着きます。

これなどは、まず、付近に人家が全くない場所であり、昔も芝刈りにさえ来ないような土地だけに、古来、狩以外では人が踏み入らない場所です。

近くに全く人家がないことからか非常に寂しい印象に残るところです。

 冒頭にあげた南小国町の玉来も、まさにその典型と言うべき土地だったのです。

以上、既に先達のある話でしたが、地名研究では比較的知られた話でもあり、あえて取り上げました。

では、他にはないのでしょうか?

以降は、既に地名研究会において話したものですが、そのままお読みいただきたいと思います。


玉 来(タマライ)

 

“旧宝珠山村小石原村の狩猟地名について”


日田彦山線の夜明駅から大行司を経由し、国道211号線で小石原焼の旧小石原村に向かうと、小石原村鼓(つづみ)辺りに桑鶴、蔵貴、黒谷、鶴、釜床といった地名が並んでいます。

恐らく鼓とは包み込まれた臼状の谷底のような地形を意味するものであり、一応は自然地名とすることができるでしょう。それは釜床という地名にも反映されていると思います。いわゆる、鍋、釜、臼(石、牛)地名です。さらに、喜楽来館という地名からふられたと思われる施設もあり、佐賀県の厳木などと同様、急傾斜地特有の教楽木(キュウラギ、キョウラギ)地名とも考えられますので、これについてはいずれ取上げます。

今回はこの朝倉郡東峰村という慣れない村名になりましたが、旧小石原村鼓の玉来という地名について考えましょう。

彦山に近いところだけに、宝珠、大日ヶ岳、釈迦ヶ岳、金剛野、医王寺、大行司(もしかしたら大肥も)といった仏教系の英彦山山岳修験の地名が多いようです。

今回の玉来は別系統の狩猟地名としていますが、重なっているかも知れません。

久留米地名研究会のホーム・ページや「アンビエンテ」内の地名サイト「地名は時間の化石」にも「玉来(タマライ)」を掲載しています。

ここでは、自然地名、修験地名、アイヌ語系地名、鉱山地名、渡来人系地名…と多くのバリエーションがある中で、狩猟系の地名も身近にあることをお知らせしておきたいと考えています。

重複になりますが、以前に書いた豊後竹田の玉来についてお読みください。



 

510-5 046 玉来(タマライ)


滝 廉太郎作曲の『荒城の月』の舞台、大分県の豊後竹田(タケタ)市に玉来(タマライ)と呼ばれる場所があります。JR豊肥線(阿蘇高原線)に玉来駅がありますので直ぐ分かります。この地はいくつかの谷が集まっている所で、何度行ってもよく道を間違えるのですが、過去、十数回は通っていますので、現地の地形や雰囲気などは一応把握しているつもりです。しかし、何度通ろうがこの地名の意味だけは見当がつきませんでした。ただ、谷川健一の『日本の地名』(岩波新書)を読み直してようやく分かりました。つくづく読んでいて読んでいないことに気付かされます。


・・・阿蘇山の周辺の村々には狩猟にちなむ地名が残されている。さきの下野に近い 一の宮町大字手野尾籠(おご)には狩集(かりたまらい)という地名がある。柳田国男は『地名の研究』の中で、狩集は狩猟のための集合場所で、もともと「狩溜らい」であったという。「溜る」の延言が「溜らい」である。また、阿蘇郡()(よう)町大野は通称玉来(たまらい)村であったと「肥後国誌」には記されている。これも狩集と同じ地名である。阿蘇外輪山の東にある大分県竹田市に玉来(たまらい)がある。柳田の『地名の研究』は、薩摩川辺郡加世田村大字津貫(つぬき)字狩集(加世田市)や肥後八代郡下(まつ)()()村字狩集(八代郡坂本村)の例もあげている。


 まず、谷川氏は薩摩川辺郡加世田村大字津貫字狩集(現南さつま市)の例も上げておられますが、この津貫は“ツヌキ”と呼ばれています。現地は加世田川本流の上流部分の谷の集まる場
所であり、狩集の場所であることは一目瞭然でしょう。さて、久留米地名研究会(準)の第三回研究会では“道目木”について取上げましたが、そこに、旧小石原村の玉来の上流に蔵貫(ゾウメキ)があったことを思い出して下さい。もしも津貫(ツヌキ)がヅヌキ(九州西岸では概して濁音が清音化する傾向が認められるため)であり、さらに古形のヅウヌキ、ヅウメキであったとも考えられるのです(ここでもO音がU音に置き換わる傾向も認められますので)。してみると、この津貫(ツヌキ)も道目木(ドウメキ)地名のバリエーションの一つと考えられそうです。このように道目木(ドウメキ)地名と狩集、玉来(タマライ)という狩猟地名がセットで発見できるということは、ドウメキという名が付くような谷の集まる場所、合川、落合、吐合、河合…こそ、狩の集合場所だったからに外なりません。

さらに面白いのは、阿蘇郡蘇陽町大野(幣立神社のある所)が通称玉来村であったという話ですが、その大野が加世田の津貫のそばにあることです。

私は大野と言えば直ぐに大野治長の一統の逃亡集落ではと考えてしまいますが、それはさておきこの大野までが加世田の津貫にあることです。なぜ、大野が付き纏うのか、これについても今後の課題としておきましょう。話が逸れましたので軌道にもどします。

狩集、玉来地名は柳田-谷川という民俗学の大家の言だけに説得力もあり、大変良く分かりますが、このままでは、私が書く意味は何もないことになりますので、谷川先生が著書でふれておられない、玉来を紹介して本稿を閉じたいと思います。

まず、大分県では旧天瀬町の日田市五馬に玉来神社があります。これなど、狩りの集合場所が神社になったのか、神社に狩り支度や山に入るための祈願で集まったものかと考えてしまいま510-6 す。『日本書紀』でしたか、五馬市は大和朝廷に逆らった五馬姫と言う土蜘蛛が立て篭もった場所とされています。いつもこの神社の前を通過するだけで詳しくは調べていませんので、次に訪問した時には玉来神社周辺の狩猟に関しても調べてみたいと思います。

その外にも、阿蘇外輪山の北側、黒川温泉で有名な南小国町の南側、阿蘇外輪山の北の駆け上がりにも玉来が、根子岳の東の高森町に上玉来が、熊本市の南、御船町の矢形川沿いの天君ダム上流にも玉来が、また、福岡県では、旧宝珠山村から焼き物で名高い小石原村に向かう国道211号線に玉来(現東峰村)があります。

今回は、既に書いていたものをフルに使いまわすだけの報告ですが、まず、間違いなく、この東峰村の玉来も“狩溜らい”であったことで
510-7 しょう。現地を踏むとそのことが良く分かります。

普通、狩を行なう場合は平地に集まり、その日の計画を立て配置を決めます。何やら見てきたような事を言いますが、さらなる興味をお持ちの方は柳田の本などをお読み下さい(『後狩詞記』ほか)。玉来は黒谷への山の登り口と小石原への登り口の合流部の小平地といったところであり、水田を持った山の入口といった所です。大肥川が平地に降り下り、多少流れが緩やかになり始める場所で、直ぐに川床に降りられるために獲物の解体にも適した場所なのです。

あとは、狩の風習がいつ頃まで残っていたか、本当にこの場所に集合していたのかといったことになるのですが、これについては、地元郷土史家などの協力を得なければ外部からはなかなか手が出せません。地元教育委員会辺りから背景調査を進めたいと思います。

 話は飛びますが、東峰村役場の少し上に、新たに戸有(トアリ)という地名があることに気付き途方に暮れています。今のところ全く見当が着きませんが、そのうち調べて見たいと思っています。

 最後に、平成十八年に人吉で行なわれた地名研究会設立推進シンポジウムにおいて、前田一洋氏が発表された「狩猟の誇示とその供養」に現東峰村の玉来に近いところに「千匹塚」があることが書かれています。 

…獲物に対して行なわれた供養のうち、その最たるものがいわゆる「千匹塚」であろう。…(中略)…民陶の「小鹿田(おんた)焼き」に行く途中の、大分県日田市小野市木には「千匹塚」が三基も並んで建っている。いずれも江戸時代の建立であるが、それぞれに猪・鹿を千三百余とか、千百六十などと刻んである。私も国東半島で実際に千百十一頭の鹿を仕留めた老猟師に会ったことがある。その人は最後の一頭を埋葬し、大分県知事に頼んで碑文を書いてもらい堂々たる碑を建立しておられた。…


510-8

これについてもいずれ確認する機会があるでしょう。

このように、かつて、東峰一帯にも多くの猟師や勢子が犇き、多くの獲物を仕留め、供養と称して誇り、玉来地名を残したことが言えるようです。

最後に、蛇足になりますが、一応、玉来地名は九州単位で考えても例えば玉羅位、珠来といった表記のバラツキがありません。これは玉来地名を生み出した背景に山の神を奉祭する一筋の修験者といった集団が拘わっていたことを思わせます。その方面の話をご存知の方はご連絡頂きたいと思います。

さて、最後に玉来の「タマル」という言葉について触れておこうと思います。

前述した、谷川健一の『日本の地名』(岩波新書)には


一の宮町大字手野尾籠(おご)には狩集(かりたまらい)という地名がある。・・・(中略)・・・柳田の『地名の研究』は、薩摩川辺郡加世田村大字津貫(つぬき)字狩集(加世田市)や肥後八代郡下(まつ)()()村字狩集(八代郡坂本村)の例もあげている。


と書かれていました。

集まると書いて、溜まる(タマル)と読んでいる現地地名をそのまま拾っているのです。

現実の表記例を挙げているのですから、意味を理解した上での表記がなされているということなのですが、『漢字源』にも、「トドマル」の意味はありますが、「タマル」の意味は載っていないのです。

もちろん、現地の地名表記ですからそれで良いのですが、一般には例外的な読みであることは否定できません。

念のために、掲載されているのが岩波新書ですから、『広辞苑』で「たまる」を見ると、「たま・る」【溜まる】として、②集まりとどまる。つもる。源氏物語(総角)「かひなを枕にて寝給えるに、御ぐしの―・りたる程などありがたくうつくしげなるを」。「雪が―・る」の例が書かれていました。

してみると、単なる方言ではなく、辺境に残った古語であったことが分ります。

日本には、かつて、集まる(アツマル)、集う(ツドウ)の他に、集まる(タマル)という言葉があったことが分るのです。

以前から、方言の全てとまでは言いませんが、同じことを複数の言葉で表現する日本語のバリエーションの多さには、列島形成より渡来してきた多くの民族の言葉が反映されているのではないかという思いを持っていました。

510-9 当然、九州の南半に色濃く残るこの古語の源流がどこにあるのかに思いを馳せるのですが、この「集まる」ことを「タマル」と言う方言現象については、多少、思い当たることがあります。

一九九六年一月に三一書房から出された「日本語はなかった」“私説 日本語の起源“という本があります。

日本には南方系言語(フィリッピン、台湾、西インドネシア、泰語、苗語)、北方系言語(ロロ語、韓国語、アルタイ語)が入っているというもので、多くの具体例を出されています。

この一つに今回のタマライが出てくるのです。


25)タム(集まる)                ムルト語

 

コタ・キナバルの北のベルードの市場=タムではババイたちが自家製の手工芸品や野菜を持って集まり、午前中、物交の商売をしている。ここは聖山ァキナバルへの入口である。市場=タム(、、)は集る(ア・ツマ)、溜り場、泊る所である。ジャワ東部のスラバヤの駐車場にはタマリと書いてあった。インドネシア語では、友トモ=仲間。ポリネシア語では、伴う(ともな)である。タムが語源である。


同氏によると、ババイもババヤンもインドネシア語ではおばあさんのことと書いておられます。                               (古川注)

してみると、玉来地名の分布領域には古い時代に、マライ・ポリネシア系の言語を話す人々が入っていたのではないかと言うことまでは言っても良いのではないかと思うのです。

著者の渡辺光敏氏は一九一四年生まれの日本民族学会会員で、韓国国立公州大学校客員、百済文化研究所客員という経歴の持ち主ですが、他に「辰王天皇家の渡来史」「日本の中の東南アジア」「古代天皇渡来史」「日本天皇渡来史」などを出されています。


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