スポット152 鹿島、香取は有明海沿岸から東に向かった
20171121
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
これは只の作業仮説であり、本来、調査を重ねて公開すべきとは考えますが、重要なテーマでもある事から、一旦は公開し誤りがあった場合は、再度、修正報告する事として、知りえた事を惜しまずお教えしようと思うものです。
まずは、「23・熊本県に於ける猿田彦命祭祀神社地名表」をご覧下さい。
言うまでもなく、百嶋神社考古学では猿田彦を山幸彦=ニギハヤヒ=五十猛=香取神=荒穂神=布津主…とします。
お見せしたのは「熊本県神社誌」に基づき猿田彦を調べておられるサイトで、使用するに際して「熊本県神社誌」で裏取りをした事もあります。
大変ありがたい事に、データに関しては著作権とか、有償であるとか小賢しい事を言われる方が多い中(行政絡みも酷いです)、ご自由にお使いくださいとの事であり当方も重宝しているところです。
このような方こそ本当の研究者なのであり、学問が利権ではなく何であるかを良くご存じの方なのです。
直近では、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の大宮神社と猿田彦大神 ⑨ 外で取り上げています。
ただし注意すべきは、このリストは「猿田彦」と書かれているものであり、祭神名が別の場合は拾えていない可能性はあるのです。
ちなみに、百嶋神社考古学では猿田彦=山幸彦=五十猛=布津主=ニギハヤヒ…と多くの別名があるのです。
また、猿田彦を祀っている神社を拾っているものであって他の祭神との共同祭祀の場合も拾い出しをしている点です。
さて、ひぼろぎ逍遥 370外で千葉県の鹿島、香取、伊岐須の三社で知られる香取神社が山幸彦を祀る神社である事を書きました。
この香取神社は山幸彦=猿田彦を祀るものであり、鹿島神社こそ阿蘇の草部吉見神社の主神である海幸彦=ヒコヤイミミを祀るものなのです(つまり、鹿島、香取は海幸、山幸を祀る神社なのです)。
問題は何故香取神社と呼ばれていたかでした。
鹿島神社は、佐賀県鹿島市の鹿島、熊本県嘉島町の嘉島、鹿児島県薩摩川内市の甑島の鹿島町の鹿島で、いずれも関係があるのです。さらに言えば、剣豪塚原卜伝が奉斎した鹿島大神とは阿蘇の海幸彦=草部吉見であり、百嶋由一郎氏も言われていましたが、香取神社の経津(フツ)主も有明海沿岸の島原市布津(雲仙火砕流災害の被害地)辺りから出発した山幸彦ではないかと考えていました。
何故、そう考えるかと言うと、千葉県から茨城県に掛けての一帯の「常陸国風土記」の話があるのです(例えば“杵島振り”武借間命による騙し討ち…)。
それはご自分で調べて頂くとして、香取も当然に有明海沿岸から東に向かったのではないかと考えて来たのでした。
ただ、香取の地名や社名には遭遇せず、この間放置していたのですが、犬も歩けば棒に当たるの喩の通り、相次いで香取を発見したのでした。
“相次いで”と申し上げたのには理由があり、私が発見したのは熊本県天草市上天草市大矢野町の中心部に香取神社を見出したのでした。
香取神社 カーナビ検索
熊本県上天草市大矢野町登戸1238
祭神:武甕槌神外三神 推定 草部吉見=海幸彦
山幸彦…
この一帯も、最終的には阿蘇氏の支配下に置かれた時期がある事から、祭神が武甕槌神外三神 推定 草部吉見=海幸彦とはなっていますが、当然にも山幸彦が主神として祀られていたからこそ香取神社の名が付されていたのであろうと考えるのです。
先に“相次いで香取を発見したのでした。”としたのは、「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原氏が“熊本県氷川町(旧宮原町)に百嶋先生が最重要の姫城(ヒメギ)がありますと言われていた「姫城」”を確認されたのでした。
その際の副産物として、香取神社を探し出し、氷川を挟んで北側に鹿島神社が数社ある事が、もう一人のblogを書かれている宮原秀範氏の資料の地図に書かれている事を確認されたのでした。こうして三人の共同研究、共同調査によって、謎が解けたのでした。
実は、メンバーの中には姫城(ヒメギ)を探しておられた方がもう一人おられました。
女性のO氏でしたが、この朗報をいち早くお知らせしようと連絡した所、相前後して、こちらでも呉の太伯王の後裔が入って来たと考えている「姫城」を発見しておられたのでした。
こうしてメンバー4人による思い思いの調査が一つに結びついて行った瞬間でもあったのでした。
これについては、別途報告するとして、ここでは、香取神社のルーツは確信していますが、名称の起源さえも(呉の太伯の流れは姓を「姫」とする)この地だったのではないかとの提案をしておこうと思います(詳報別稿、宮原誠一氏が先行されるかも知れません)。
5月には、熊本県氷川町一帯のトレッキングを太宰府、熊本の両グループで行いたいと考えています。
では、天草の香取神社の社殿をご覧頂きましょう。
最後に、幾つかの突拍子もない話をして次回に繋ぎたいと思います。
房総半島は上総の国、下総の国と呼ばれています。
上総国
上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。
常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。
下総国
現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する。
『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)(ふさのくに)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが(しもふさ)(しもうさ)に転じたという。
この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。
ウィキペディア(20171121 18:59)
『古語拾遺』の調子はともかくとして、この鹿島、香取は九州からの進出である事は確信しています。
何故そう考えるかと言うと、上総(カヅサ)とはどう考えても読めない表記の地名であり、元々「カヅサ」と呼ばれていたところに無理やり漢字表記が押付けられ振られたとしか思えないからでした。
この鹿島、香取のルーツが有明海沿岸であったとすると思い当たる事があるのです。
有明海の西への出口 加津佐(上)口之津(下)をご紹介しましたが、海幸彦、山幸彦の震源地である有明海沿岸から瀬戸内海、勝浦、東海、房総へと進出するとした場合、口之津、加津佐に集結し、有明海からの海流を利用し自然に吸い出され対馬海流に乗るのが最上策であり、恐らく、玄海灘、関門、瀬戸内海、南紀、東海、房総へと進出したと考えています。
思えば口之津とは海員学校が置かれ、明治期から始まる初期の上海への石炭の積出し港として税関が置かれた国際貿易港でもあった場所であり、現在でも口之津港の湾奥には高良山神社が置かれているのです。
つまり、九州王朝の軍港であった可能性さえも考えられる場所なのであって、この西隣の加津佐が房総の地名として振られたのではないかと思うのです。
太宰府地名研究会のHPには「苧扱川(オコンゴウ)」を掲載していますが、これこそが九州王朝の最重要港湾であったと考えています。詳しくは「苧扱川」を読まれるとして、上の地図には野田浜という地名がある事にお気付き頂けると思います。
そうです。千葉と言えば野田の醤油ですね!上総=加津佐も、野田という地名も持ち出されたのです。
資料) 口之津は九州王朝の最重要港湾か? (2011年夏に久留米大学で講演した「苧扱川」の一部分)
口之津港湾奥の小丘に鎮座まします高良山神社
皆さんは、口之津湾の湾奥に高良山神社があることをご存知でしょうか?
国道筋から数百メートルも入った目立たない所にあることから、地元でもこの界隈に住む方しかご存じの方がおられないようですが、今も高良山という小字が残る小丘に、立派な鳥居を持つ社が鎮座しているのです。もちろんご存じないのが道理ですが、大牟田市の西南部、有明海に鋭く突出した黒崎岬の先端や、私の住む武雄市花島地区のこれまた高良大社に向かって東に突出した小丘にも高良玉垂が祀られていることから、この口之津高良神社もそれらの一つであると考えられます。
京都や青森の五戸にもあることから、直ちに何かが分かるというものではありませんが、古来、有明海一帯を支配したはずの高良玉垂の威光を感じさせるものであることは言わずもがなのことであるはずなのです。
この場所は、現在、公園化されているポルトガル船の接岸泊地跡からさらに百メートル近く奥に入ったところに位置しています。さらに言えば、埋め立てが進んだ口之津湾の相当に古い時代の港湾跡の上にあたるようなのです。
遠い古代に於いて、外洋航海も含めた出船泊地であったとしか思えない場所なのです。
そして、そのことを証明するかのように、この岬の直下には「西潮入」という小字が残っています。
もはや疑う余地はありません。朝鮮半島から中国大陸への最後の安全な寄港地、停泊地
である口之津から、帆をいっぱいに張った外洋船が、遠く、中国、朝鮮に向けて出て行く姿が目に浮かんでくるようです。きっと彼らは、高良玉垂に航海の安全を願い外海に出て行ったと思うのです
長崎の最南端、野母崎(長崎半島)を廻ります。すると、自然と対馬海流に乗り、全く労することなく一気に壱岐、対馬、そして朝鮮へと、また、五島列島を経由し江南へと向かったことが想い描けるのです。
さらに思考の冒険を進めてみましょう。
何故、この地に苧扱川があるかです。繊維を採り布を作るとしても、単純に、服の生産などと考えるべきではないでしょう。恐らく古代に於いても、最も大きな布(繊維)の利用は、服などではなく、、船の帆ではなかったかと考えるのです。
一般的には、中央の目から、また、九州に於いても博多の目から、宗像、博多、唐津、呼子が強調され過ぎていますが、宗像はともかくも、博多から半島に向かうとしても、一旦は西航し、対馬海流に乗ったと言われるのですから、久留米、太宰府からも引き潮はもとより、有明海の左回りの海流を利用して口之津に出て、対馬海流を利用する方が遙かに安全で有利だったはずなのです。
苧扱川の苧麻布とは木綿以前の繊維
古代において、有明海の最奥部であったと考えられる久留米の市街地にオコンゴウと呼ばれる川、苧扱川(池町川)があり、西に開いた有明海のまさにその出口の一角に苧扱川と苧扱平という地名が三ケ所も残っています。
さて、この島原半島南端の良港、口之津にオコンゴ地名があることは象徴的ですらあります。始めはそれほどでもなかったのですが、今になって、このことの意味することが非常に重要であることに気づき、今さらながら戦慄をさえ覚えるほどです。
一つは、あまりにも強固な地名の遺存性についての感動であり、今ひとつは、有明海が西に開いていることと多くの伝承や物象が符合していることです。
まず、広辞苑を見ましょう。「【苧麻】ちょま〔植〕カラムシ(苧)の別称。」としています。カラムシ(苧)を見れば、かなり多くの記述あり、ここでは略載しますが「…木綿以前の代表的繊維(青苧(あおそ))…」などと書かれています。
重要なことは、もしも外回りの航路を採ったとすれば、口之津が大陸へ向けた本土最後の寄港地であることからして、この苧が衣服ばかりではなく、船の帆や綱として組織的に生産され、それが地名として今日まで痕跡をとどめたのではないかとも考えられるのです。
ここで、さらに視点を拡げます。実は、この苧、苧麻が皆さん誰もがご存知の、いわゆる『魏志倭人伝』(魏志東夷伝倭人条)に登場するのです。
もはや、写本のどれが正しいかといった議論は一切必要ありませんので、手っ取り早くネットから拾いますが、いきおい「苧」、「苧麻」が出ています。少なくとも有明海沿岸が倭人の国の候補地になることは間違いがないところでしょう。
上総、下総の鹿島神社(海幸彦)、香取神社(山幸彦)、息栖神社(長脛彦=カガセオ)
研究目的で百嶋神社考古学の音声CD、手書き資料(DVD)神代系譜等を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。