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515 但馬に勅使門を持つ神社がある “兵庫県朝来市の粟鹿神社”

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515 但馬に勅使門を持つ神社がある “兵庫県朝来市の粟鹿神社”

20170808

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回の但馬遠征の最大の目的はこの粟鹿神社を見る事でした。

 以前から何度も行こうと思いながらも養父の調査に重点を置いていた事からこれまで果たせなかったのですが、ようやく叶いました。しかし、ここから大きな疑問が湧いて来ることになったのです。


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粟鹿神社 カーナビ検索 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152 ℡079-676-2465


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当勝(マサカツ)神社は正勝吾勝勝速日天忍穂耳命を祀る神社のようで粟鹿神社と同類の神社のようです


515-3

一説ではこの神社の歴史は2000年以上あるとも言われていて、『古事記』や『日本書紀』よりも古い和銅元年(708)に記された『粟鹿大明神元記』には大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとことなどが記されているという。

粟鹿神社は『延喜式』式内社のなかでも社格の高い名神大社(みょうじんたいしゃ)のひとつで、朝廷の信頼厚く、国家の大難に対して4度の勅使参向があったことが記録に残っているそうだ。上の画像は勅使門で、朝来市指定文化財となっている。

「しばやんの日々」による


 文中の「大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行った」は少し疑問があり、「神直が」は「神直日が」が正しいのではないかと思ってしまいます。しかし、HP玄松子氏も採用されており、誤植と言ったものとは考えられず、ここでは神直(カミノアタイ)が何か?と保留しておきます。

神直日は知られていませんが、故)百嶋由一郎氏作成の神代系譜によれば以下のようです。


直毘神

直毘神(なおびのかみ、なほびのかみ)は神道の神である。穢れを払い、禍(まが)を直す神とされる。

日本神話の神産みにおいて、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに、その穢れから禍津日神が生まれた。この禍津日神がもたらす禍を直すために生まれたのが直毘神である。『古事記』では八十禍津日神・大禍津日神が成った後に神直毘神(かみなほびのかみ)、大直毘神(おほなほびのかみ)と伊豆能売の三柱が成ったとしている。『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神が成った後に神直日神(かみなほひのかみ)大直日神(おほなほひのかみ)の二柱の神が成ったとしている。同段第十の一書では少し異なっており、イザナギが禊の際に大直日神を生み、その後に大綾津日神(大禍津日神と同一神格)を生んだとしている。

ナホは禍を直すという意味である。ビは神霊を意味するクシビのビとも、「直ぶ」の名詞形「直び」であるともいう。いずれにしても、直毘神は凶事を吉事に直す神ということである。ナホ(直)はマガ(禍、曲)と対になる言葉であり、折口信夫はナホビの神はマガツヒの神との対句として発生した表裏一体の神であるとしている。また、直毘神は穢れを祓う神事を行う際の祭主であり、伊豆能売は巫女であるとも考えられる。

ウィキペディア(20170808 18:02による


515-4

百嶋由一郎 008イヨ系譜(部分) 神直日を確認して下さい

 朝来市和田山の赤淵神社にも勅使門があるのですが、寺院に比べて神社の勅使門は非常に少なく、勅使殿とか勅使館はあるとしても、これまで宇佐神宮(宇佐市)、薦神社(中津市)以外見たことがありませんでした。


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御祭神 彦火々出見尊、あるいは日子坐王(玄松子による)


百嶋神社考古学では、彦火々出見尊=山幸彦とは、猿田彦でありニギハヤヒでもあるのですが、もしも主神が彦火々出見尊であるとすると、摂社の猿田彦が何なのか?という問題があるのです。

多分、彦火々出見尊=山幸彦が猿田彦は別神としているからなのでしょうが、その点、日子坐王説は受け入れやすい所です。


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菊と抱茗荷の合神紋に男千木

粟鹿神社

御祭神 彦火々出見尊、あるいは日子坐王

兵庫県朝来市(旧山東町)にある。梁瀬駅から、427号線を南東に2Km。そこから南へ1Km弱、粟鹿川の南、粟鹿にある。道路の西側に白い鳥居が立ち、参道をあるくと、土塀に囲まれた境内。北側に勅使門、南側に日の出門がある。勅使門は、神功皇后が新羅から凱旋して当社に参拝したことに因むものという。日の出門をくぐると、境内北側には南向きの社殿。

境内社は、南側に天満宮(菅原道真公)。西側の池の中に厳島神社(市杵島姫命)。その後方、丘の上に稲荷神社(保食神)。丘の麓に、茗荷神社(草野姫命)と床浦神社(大己貴命)がある。また、社殿の東側に馬舎のような猿田彦神社(猿田彦神)。 創祀年代は不詳。一説には、崇神天皇の御代、粟鹿山の麓に創立されたといい、また、景行天皇十二年、天皇が筑紫の熊襲を征圧した時に勅して天皇の祖を祀ったとも。神功皇后三韓征伐の際に神助ありて凱旋後に奉幣使を立てたという。天正九年(737)の『但馬国正税帳』(正倉院文書)にも「朝来郡粟鹿神戸祖代六十六束二把」とある古社。粟鹿の名は、昔、粟鹿山の洞穴に住む一頭の鹿が、粟三束をくわえ、村に現われ、人々に農耕を教えたという。その鹿を祀ったのが、当社であるという。また、粟鹿山の荒ぶる神を祀ったとも。 但馬国一の宮。 祭神は彦火々出見尊。

以前は上社、中社、下社とわかれていたらしく、上社に彦火々出見尊、中社に龗神、下社に玉依姫を祀ったとも。あるいは、四道将軍の一人であり、日下部連の祖、丹波道主の日子坐王とする説もある。

本殿裏側のこんもりとした丘が、日子坐王の墳墓という伝承も。

さらに、粟鹿の社号から、伊和大神の妹・阿和加比売命を祀るという説もある。

近年発見された『粟鹿大明神元記』和銅元年(708)八月に、大国主命を祖とする神直が当社の祭祀を執り行ったとある。神紋は、茗荷と菊の合せ紋。茗荷紋は、境内社・茗荷神社に由来するらしい。

敬愛するHP玄松子による


515-7

稲荷=保食神とは実は豊受大神でありアメノウズメ 言わずと知れた市杵島姫は播磨の佐用津姫なのです


由緒 当社は但馬国最古の社として国土開発 の神と称す。国内はもちろん、付近の数国に わたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。人皇第一〇代崇神天皇の時、第九代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、 丹波一円を征定して大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。粟鹿山麓粟鹿郷は、王 薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である。 旧県社。-『全國神社名鑑』-


515-8九州王朝論者の皆さんに対して、嘘つき畿内説論者や愚かな東遷論者など相手にせず、是非とも知って頂きたいのは、この第九代開化天皇こそ久留米市の高良大社の高良玉垂命なのであり、四道将軍を送り込んだのも九州王朝そのものであるという事です。

 すると藤棚がある事も、日子坐王が祀られている事も、勅使門がある事もすんなり理解できるのです。右は「高良玉垂宮神秘書」のほんの一部です。

 勅使門は、神功皇后が新羅から凱旋して当社に参拝したことに因むものという。話一つにしても、高良玉垂命と神功皇后が夫婦であったとの話を理解するならば理解できる事であり、捏造の書でしかない「記」「紀」を真に受けて議論する事から離脱されるべきではないかと思うものです。

遠く九州を廻らなくても畿内の一部の但馬にも播磨にも九州王朝を垣間見ることができる現場はあるのですから少しは文献から解き放たれ現場を重視して欲しいものです。


515-9

百嶋由一郎038重要系譜裏


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