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215(前) 求菩提山岳修験の残照 “求菩提山 宝地院との偶然の接触から” 

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215(前) 求菩提山岳修験の残照 “求菩提山 宝地院との偶然の接触から” 

20150615

久留米地名研究会 古川 清久


215-1

614日、百嶋神社考古学に関心を寄せる熊本在住の美人霊能者の二人に誘われ、どこに行くかもはっきりしないツアーに出ました。彼女たちはそれなりに認識していたのでしょうが、私が聞かされていたのは、行橋市のある寺に行き、法話を聴く…ということだけでした。

彼女たちの奇妙な力を多少は認識している事から、わざわざ熊本市内から行橋まで出て来るのだろうからそれなりに意味のあるイベントなのだろうという曖昧な認識のまま、予定の10時より20分ほど前までには無事に現地に到着し、さっそく住宅地内の寺に伺いました。

すると、そこの玄関には 求菩提山宝地院 と書かれていたのです。


求菩提山 宝地院 Kubote_san HOUCHIIN


求菩提山 宝地院 修験-歴史遺産の継承

 当院は、京都の聖護院門跡を本山とする末寺として開院の際、求菩提山の鬼門封じの寺として歴史のある「如法(ねほう)()宝地院」より継承し、「宝地院」を名乗るよう授けられました。現在、当院は聖護院門跡の末寺から離れ、「求菩提山 宝地院」として、古来より連綿と伝えられた求菩提山に伝わる山岳修験の伝統を守りつつ現在に至っております。

 近世以降、修験道は江戸幕府の政策もあって「本山派」「当山派」の二つに分かれましたが、聖護院はこのうち「本山派」の中心寺院でありました。そして1872年(明治5年)の修験道廃止令の発布の際には天台寺門宗に所属しておりましたが、1946年(昭和21年)、修験宗を設立(本山修験宗の設立は1957年)して天台寺門宗から独立しています。

天台宗寺門宗とは、日本天台宗本山の比叡山延暦寺で、円仁と円珍によってふたつに分かれた二派(山門派・寺門派)のうち三井寺に入った寺門派のことで、顕密一致の宗旨に修験道が加わるという特質があります。求菩提山は、明応31494)、熊野三山検校で聖護院門跡であった三宮道興法親王(さんのみやどうこうほうしんのう)(道興准后(どうこうじゅんこう))の入山によって聖護院に所属しました。

また、当院では、各地での法話参加者の増大にともなって、九州(行橋)、東京、名古屋、大阪へ各本院を構え、法話や講習会などを定期的に行ない、九州本院では開院当初より、「六峰会修験本坊」として連綿と続く山岳修験を守り続けております。1987年には120年ぶりに英彦山峰入修行を復興し、春峰、秋峰、寒行、断食籠行、盂蘭盆会、星供養会などの年中行事も、全国から多くの方々のご参加を受け毎年続けてまいりました。 
 現在、祈願・供養の作法、星供養会、盂蘭盆会を行い、山岳修験の形式を伝承する「五日間断食籠行」は開院当初より途切れることなく初冬に行なわれております。

各種の寺院行事には、全国から大勢の方々のご参加をいただき、山岳修験の伝統を古来のままに守り続けております。

「宝地院」HPより


行橋に入った辺りまでは真言か天台かは分からないものの、たぶん密教系の団体だろうぐらいの感覚でした。しかし、求菩提山山岳修験の一派となると、これなら少しは従来抱いて謎の解明に繋がるのではないかとにわかに色めき立ったのでした。

まず、求菩提山山岳修験は、いつの時代か国東の修験と衝突し西に逃げ、肥前に展開した八天神社などとなった…と理解していました。

また、福永晋三氏などが求菩提山山岳修験に象徴される大天狗+八天狗こそが八天狗=ヤタガラスとの説を提出されており、久留米地名研究会主催の杵島山トレッキング資料にも以下の様に書いています。


八天神社


一般的には、「祭神は、火之迦具突知大神・建速須佐之男大神・火の神に属される神々様です」などとされるのですが、この神社の本来の意味が分かる人はほとんどいないように思えます。

インターネット上に出てくる内容を見ても、全く実態をつかめていないといったところでしょう。

八天社、八天神社なるものが大分、福岡、佐賀、長崎の主要な山の頂上に祀られ、八天山も多い。

この祭神は求菩提山八天狗であるとするのが、九州王朝論者でも特異な位置を占める、東京の福永晋三(神功皇后紀を読む会主宰)氏であることを我々は知っています。以下ご参照あれ。


神武東征研究
 中国史書と日本書紀の整合性  


215-2邪馬台国成立の絶対年代
先に、『後漢書』倭伝と記紀を比較して、「倭国大乱」時に神武東征があったのであれば、そこで「倭奴国」が滅び、「邪馬台国」が成立したと見るべきだったのである。「歴年主無し」が、記紀のいわゆる「欠史八代」に相当し、卑弥呼は「邪馬台国大乱」の後、崇神天皇紀の頃に共立されたのであった。事実、神武朝(邪馬台国)は終に「後漢」に遣使することなく、「魏」に交替して初めて遣使したのである。故に、范曄は『後漢書』倭伝に、邪馬台国の女王卑弥呼の共立までを載せ、卑弥呼の遣魏使や魏朝の倭国記事(二四〇年の倭国遣使等)を載せていない。
 と書いたが、ここには一部誤りがあったようだ。倭国乱の始まりに関しては、やはり『魏志倭人伝』の方が正確であったようだ。
其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼
其の國本亦男子を以って王と為す。住まること七八十年。倭國亂れ相攻伐すること歴年。乃ち一女子を共立して王と為す。名づけて卑彌呼と曰ふ。
 この男子こそが神武天皇(大王)その人である。次の一文が「(王位に)住とどまること七八十年」の意であるとするとき、『日本書紀』「神武天皇紀」には、
辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に帝位に即く。
七十有六年の春三月の甲午の朔甲辰に、天皇、橿原宮に崩ず。
とあり、「(王位に)住とどまること七八十年」と「七十有六年、天皇、橿原宮に崩ず」とはものの見事に一致する。
 最後の倭奴国王が紀元一〇七年に在位した倭國王帥升と目されるなら、そこに最も近い「辛酉年」は「紀元一二一年」の絶対年代となる。
また、神武は七十有六年後に崩御する。倭国の春秋暦(二倍年暦)であるなら、崩御は「紀元一五八年」となり、「倭国の乱」はこの三年(あるいは一年半)後の綏靖天皇の庶兄手耳命謀殺から始まったと推測される。一五八年は後漢の桓帝の延熹元年に当たるから、『後漢書』倭伝の
桓霊の間、倭國大いに亂れ、更も相攻伐し、歴年主無し。
の記事も決して間違いではないようであり、霊帝の次の献帝の在位期間中(一九〇~二二〇)に卑弥呼が即位したのではなかろうか。ぎりぎり後漢時代に即位したからこそ、范曄は『後漢書』倭伝に、邪馬台国の女王卑弥呼の共立までを載せ、卑弥呼の遣魏使や魏朝の倭国記事(二四〇年の倭国遣使等)を載せなかったのだろう。史家としての良識を見てとることができよう。
『三国志』の二三八年の遣魏使の事実はもとより不動である。
 思えば、『後漢書』と『三国志』のいずれかが正しく、他方が誤りとするかのような「偏った邪馬壱国論」からは決して私のような分析は生じない。むしろ、『後漢書』と『三国志』は補完の関係にある正史と見るべきである。

215-3

(『越境としての古代』6「神武は筑豊に東征した」(福永晋三)の一節)


邪馬台国年表
前一四 饒速日、豐葦原瑞穗國の笠置山に降臨。瓊々杵、日向の

クシフル岳に降臨。天満倭国=倭奴国が成立する。
饒速日は古遠賀湾沿岸部を領有、中洲皇都を建設。天物部八十氏が筑豊の山や島を領有し、「山島に居し、分かれて百余国を為す」。
瓊々杵は博多湾岸を領有し、百余国の一角を形成する。
後五七 倭奴国王、漢光武帝に遣使。金印を受く。天孫本紀に云う天香語山命か。

豊前の天台修験(聖護院系)求菩提山

後七〇 磐余彦誕生。後の神武である。
後八三 お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)陥落。鸕 草葺不合尊の佐賀平野攻略戦。
一〇七 倭国王帥升、後漢の安帝に生口一六〇人を献ず。天孫本紀に云う天忍人命か。
    この頃から韓半島・倭奴国乱れ、以後、漢への遣使が途絶する。
一一四 磐余彦、冬十月、諸兄・諸皇子らと第一次東征を開始。
    十一月、岡水門に至り、軍備を整える。
一一五 春三月、遠賀湾を遡り、夏四月、長髄彦軍と交戦、五瀬命負傷し、敗戦。博多湾住吉神社近くの 

草香津に帰還。五月、五瀬命死去、竈山(宝満山)に葬る。竈山の高千穂の宮において、三年間再軍備。
一一八 春二月、第二次東征開始。「日を背にして戦う神策」を実行に移す。速吸門(関門海峡)に至り、珍彦を道案内とする。菟狹(宇佐)に至り、一柱騰宮に入る。    

数ヶ月、狹野嶽(求菩提山)に通い、頭八咫烏(求菩提山八天狗)一族と同盟を結ぶ。
六月、「天皇獨り、皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む。既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」
七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。八月、「菟田縣の血戦」に勝つ。九月、天香山(香春岳)攻略にかかる。十月、赤銅の八十梟帥を国見丘に破る。十一月、彦山川水系を南下し、嘉麻川水系に入る。「十有一月の癸亥の朔己巳に皇師(みいくさ)大きに擧(こぞ)りて、磯城彦を攻めむとす。」立岩丘陵(飯塚市)に籠る磯城彦を攻めようとして、神武は川と海の混ざる広大な沼を徒歩で渡り、片島(飯塚市)に上陸、遂に「熊野の神邑」を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。「天磐盾(立岩神社)に登り」、東征成就を天祖に祈願する。十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む。「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髓彦を撃つ。」苦戦を強いられたようだが、辛勝し、終に長髓彦を殺す。倭奴国滅亡。 長髄彦は年代が合わず、滅ぼされたのは、天忍人命・天忍男命のようである。饒速日の別の末裔は神武に帰順したようでもある。

一一九 春二月、「諸將に命じて士卒を練(えら)ぶ」。倭奴国の残存勢力を掃討する。
    三月、畝傍山(香春一ノ岳)の東南の橿原の地に帝宅の建造を命じる。この後、鞍手郡誌によれ 

ば神武は一旦、宝満山すなわち筑紫に陸路で凱旋する。
一二〇 秋八月、香春に戻って来た神武は、正妃を娶ろうとする。
    九月、「媛蹈韛五十鈴媛命を納(めしい)れて、以て正妃と爲す」天神の血統を入れる婚姻であ   

る。
一二一 「辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇、橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。」邪馬台国創始。
    二月、論功行賞。「頭八咫烏、亦賞の例に入る。」求菩提山・英彦山から彦山川水系に沿って、  

今日の田川郡赤村より「烏尾峠」辺りまでの「飛ぶ鳥の明日香」の地の領有を認められたらしい。
一三六 神武、邪馬台国を巡幸。秋津島倭の国号始まる。
一四一 春正月、神渟名川耳尊のクーデター。手研耳命暗殺さる。天孫系から天神系に王権が移る。
一四六~一八九 倭国大乱(後漢書)。
一五八 春三月、神武崩御。秋九月、畝傍山東北陵に葬られる。
一七八~一八四  「漢の霊帝の光和中、倭国乱れ、相攻伐すること歴年」
一八九 卑弥呼共立か。(『三国史記』によれば一八四前後の即位も考えられる)
二三〇 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州および亶州を求む」、三国志呉 

書「孫権伝」黄竜二年
二三八 卑弥呼、魏に遣使。景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝 獻,太守劉夏遣吏將 

送詣京都.
二四〇 魏使、邪馬台国に至る。正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國
二四三 卑弥呼、大夫伊聲耆
掖邪狗等八人を遣使。
二四五 正始六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授.
二四七 邪馬台国狗奴国と交戦。正始八年,太守王頎到官.倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,  

遣倭載斯・烏越等詣郡相攻擊狀遣塞曹掾史張政等.因齎詔書・黃幢,拜假難升米為檄告之.
二四八 卑弥呼死去。卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步.
二四九~二五五?  再び倭国乱る。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人.臺與この間に即位か。
二六六 臺與、晋に遣使。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定.獻上男女生口三十人,貢白珠五 

千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹.政等以檄告壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺.

三六七 邪馬台国、神功天皇に滅ぼされる。
三六九 水沼の皇都(大善寺玉垂宮)建設される。新・邪馬台国の創始。


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