スポット176 赤村の超巨大古墳発見の背景について“うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」の転載”
2018418
太宰府地名研究会 古川 清久
先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”をオンエアしています。本稿はその続編になりますが、今回は九州王朝論者の大御所内倉武久氏のブログからの全面転載を行うとともに、同サイトの宣伝を行わせて頂きます。
その前に、当方のブログの冒頭も若干お読み頂きましょう。
現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。
赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。
丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。
また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。
=2018/03/20付 西日本新聞朝刊=
既に公開されてしまった事から申し上げますが、この古墳の存在については一部の九州王朝論者の間ではかなり知れ亘っていましたし、信用できる研究者に対しては秘密裏に情報を流してもおりました。
報道でも登場した福永晋三氏は五年ほど前から香春町講演を行っていますが、福永氏と私とが3~4年程前の香春町での講演の直前に川崎町のN某氏から“こんな映像が見れるんですが…”として、私のパソコンを引っ張り出してグーグル・アースの画面やらN氏の手持ちの画像で確認したのが事の発端でした。
その後しばらくして元朝日新聞の記者でありミネルヴァ書房から「太宰府は日本の首都だった」外3著を出しておられる内倉武久氏をお連れして、現地の筍(タケノコ)山などに入り、高坏の破片となどの土器片を拾い、地権者である筍栽培農家の方からも大量の土器片を入れた箱などを見せて貰った事から、何とかオーバー・グランドに引き上げられないものかと工作を始めたのでした。
そもそも傍流の九州王朝論者の一部には「豊前王朝論」なる概念があり、九州王朝の連合国家、分封制、分裂国家(南北朝ならぬ東西朝)といった様々な仮説が提出されていました。
代表的なところでは大柴英雄の「豊前王朝」、坂田 隆氏、室伏志畔氏、佃収…と言った主として傍系の九州王朝論者の一群になるのですが、発見以来、私自身の当初の考え方としては始めから宣伝戦を行なうべきだというものでした。
それは、邪馬台国畿内説の最大の根拠とされてきた畿内の大型古墳群に対して、九州などには巨大古墳は存在しないし、あってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)京都学派なのであって、九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが、どうせ蓋をして重要なものほどコンクリートで固めてしまい、発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。
これこそが、古田武彦や九州王朝論が無視され攻撃され、他愛もない邪馬台国九州説までもが相手にされず、お伽話風のご当地邪馬台国説だけが許容されてきたのでした。 …以下省略… 以降は内倉ブログ
ブログNO.78 福岡県赤村に超巨大古墳?
前方後円墳形、安閑天皇御陵の可能性も
2018-03-31 01:03:22 テーマ:ブログブログNO.78(取り換え用)
福岡県赤村に超巨大古墳? 前方後円墳形、安閑天皇御陵の可能性も
3月20日の西日本新聞筑豊版に「福岡県田川郡赤村という所に超がつく巨大前方後円墳が発見された。邪馬壹(台)国の女王・卑弥呼の墓か」というニュースが掲載され、後日九州朝日放送(KBC)でも放送されたと聞く。
場所は当ブログNO.77でお伝えした「本当の神功皇后陵」のある福岡県京都郡みやこ町に近い田川郡赤村というところである。この超巨大前方後円墳?については小生も関係していたので知りえたデータをお伝えしておこう。
グーグル・アースで計測すると全長は最大に見積もると470、あるいは465㍍ほど。後円部の直径は180㍍前後、前方部の幅は220㍍前後はある。日本一の巨大前方後円墳として知られる大阪府堺市の大仙古墳(仁徳陵古墳)が全長486㍍というからこれに次ぐ列島二番目の巨大古墳ということになる。
この巨大前方後円墳?が地元で発見されたのは2014年ごろのことで古代史ファンの間ではよく知られていた。
小生が田川地区の南に位置する朝倉市に継体天皇、そして息子の安閑天皇が香春(かわら)町勾金(まがりかね)を含む大任町、赤村周辺に都を造り、継体天皇の本当の御陵候補として朝倉市菱野の列島最大の超大型円墳・長田古墳(直径130㍍=グーグルアース計測)をあげた(ブログNO.13~15)。このことで、同地区の機運は大いに盛り上がった。2015年のことだ。
小生ら数人でこの前方後円古墳形地形「仮称・赤村内田古墳」の調査をしてみた(写真・模式図参照)。
古墳であるとすると、この古墳は丘の一部を切り取って造ったいわゆる「丘尾切断型」の古墳である。
西側は丘と切り取った部分の間を環濠として利用しているらしく、現在ぐるっと墳丘を囲む形で田んぼになっている。南側の前方部?の端には現在も池が残っており、環濠の一部ではないかと考えられた。
後円部は中心から東側が大きく崩落しており、流れた土砂は平成筑豊田川線の線路を越えている。
後円部裾付近で土地所有者が土器(須恵器)を採集しており、見せていただいた(写真)。小型の壺か高坏の一部ではないかと思われるものもあった。おそらくいわゆる「祭祀用の造り出し部」が形成されていたのかもしれない。
墳丘全体にいわゆる葺石らしいものはまったく見受けられなかった。
土地所有者・広瀬さんのおばあちゃん(現在死去)の許可を得て墳丘の様子を探った。頂上部付近の土を細かく調べたが、盛り土はきわめて細かい土砂で、石混じりのいわゆる山土とはまったく違っていた。土質に詳しい人は「さらさらにした土を盛っているようだ」と話していた。
盛り土を上から激しく踏みたたくとボンボンと空虚な音がした。中に空洞(横穴式石室)が設置されている可能性が考えられた。
もし古墳であるとすれば石室を築くための墓道(ぼどう)があるはずだ。資材の運び入れや後に追葬する折に使う道だ。墓道は後円部の右側に出入り口を設けるケースが多いのと、墳丘の東側に沿って御祓(みはらい)川が流れているのでそこから資材を運び込んだのではないかと考えた。
土地所有者の広瀬さん宅の西側に水がしみ出しているところがあり、そこに鉄棒を刺し込んで調べてみると、固い地盤のなかに約5㍍幅で切れ込みがあることがわかった。中心部に向かっているらしい。墓道である可能性があると思った。
前方部?を歩いてみたが地表ではそれらしい構造物は発見できなかった。
その途中、広瀬さんの娘さん(現当主)が現れ、「何をしてるんですか」と激しい口調でなじられた。「古墳である可能性があるので、おばあちゃんの許可をとって調べさせてもらっています」と答えたが、「私は聞いていない。すぐに出ていってください」と申し渡された。地磁気探索による内部の透視作業も考えていたが、それ以上の調査はできなかった。
◇「卑弥呼の墓」の可能性はない
巨大な前方後円墳であると発表された折、「この古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓である」と発表したようだ。田川地区に知られていない数多くの前方後円墳がある、ということを一般にアピールするにはもってこいの発表の仕方かもしれない。しかし、基本的に古墳の裾から出土する土器や墳丘の形を見る限り、西暦247年前後に亡くなった卑弥呼の時代までさかのぼるとは思えない。邪馬台国田川説を唱える人もいてその著述も拝見したが、物証に乏しく、卑弥呼のことを記した『魏志倭人伝』を充分読みこなしているとは思えない。
解釈にも疑問が多い。一例をあげれば『魏志』の距離記載の問題だ。前後の時代の尺度と違い『魏志』は故古田武彦氏らの研究で判明している通り「短里」を使っている。「一里(300歩)=76㍍前後」だ。
この数値から「卑弥呼の墓」は「径100歩」と記録されているから直径25㍍前後の円墳、あるいは円墳に祭祀用の出っ張りをつけたホタテ貝式とか小規模の前方後円墳であろうと考えられる。「赤村内田古墳」とは桁違いに小さい古墳だ。
田川地区が通説とは全く違い、真実の古代史のキィを握る地域の一つであることは間違いないのだが…。
実は愛知県に住む古代史研究家・石田泉城氏がこの1月8日、同じグーグル・アースを使ってこの前方後円形地形を見つけ、インターネットブログ(「古代日記・コダイアリー)で公開している。そして「このことは多分私が初めて発見したことではないか」と述べている。
現地の人は最初に自分が発見したことを知らせようとして「卑弥呼の墓」として急遽発表したのではないかと思われる。
◇安閑天皇の陵墓の可能性も
もしこの古墳が間違いなく巨大な前方後円墳であるとすれば、誰が埋葬されているのだろうか。卑弥呼でないことは確実と思われる。もっとも確率の高い人は安閑天皇ではないだろうか。
当ブログNO.15でお伝えした通り、安閑天皇は当地に数多くの屯倉を設置し、その都は「勾の金の箸の宮」とされる。香春町勾金付近だ。この古墳形地形の脇を流れている御祓川の下流約1.5キロに安閑の都の一部と考えられる「浦松遺跡」がある。
父親の継体天皇が都した朝倉市から北に峠一つ越したところである。4世紀末ごろの神功皇后の本当の御陵(ブログNO.77参照)にも近い。
安閑天皇の御陵について『記紀』は「河内の古市の高屋の丘」にあると書いている。「河内」は今大阪平野の海岸部を指すと考えられ、宮内庁が指定している御陵は大阪府羽曳野市にある。が、当地は「元祖・河内」である(ブログNO.59参照)。
特に古墳のある場所付近は「本河内」と言っていたという。古墳近くに立てられている「圃場整備記念碑」にもしっかり記されている。
「高屋」は当地ではその地名を確認できないが、隣接の京都郡みやこ町には現存する。「古市」は行橋市の「椿市」を指しているのかもしれない。古くから「歌垣」も催されていたという市(いち)でもある。奈良県桜井市の「第二次・椿市」の本家に当たる場所だ(ブログNO.16参照)。
安閑天皇は長らく継体天皇の補佐役として活動したが、治世わずか2年(『紀』は4年間)という〝短命〟天皇だったという。その理由がわかりそうだったので当ブログNO.56の後半部分に書いておいた。
いずれにせよ、極めて短い治世の天皇で、その御陵には皇后の「春日の山田の皇女」と妹の神前(かむさき)皇女を合葬したという。もし当古墳が巨大な前方後円墳であるとしたらその石室も巨大であろう。奈良・飛鳥の見瀬丸山古墳(全長318㍍)をはるかにしのぐ石室(28.4㍍以上)が構築され、継体朝の文化を証明する数々の遺品が眠っていることだろう。
報道では、この件に関して何も知らず、さらに「九州にそんなものはないはずだ」といういかがわしい通説だけを頼りにした「研究者」や「権威者」が「古墳ではない。前方後円墳に似た自然の地形だろう」とコメントしているらしい。
どちらが正しいか。磁気探査や発掘調査の実施が待たれる。これらの「研究者」は詐欺的手法を使って通説を守ろうとしていることは、このブログで繰り返し述べて来た。彼らは必死になって通説を守ろうとし、調査を拒むだろうが、市民の正しい歴史への理解のために徹底した調査を行う時期に来ている。(2018年3月) 以上引用部終了
皆さんも、まずは、平成筑豊鉄道田川線の内田駅周辺を検索される事から始めて頂きたいと思います。
ただ、残念なことに、九州王朝論者と自認する人々でさえ、現地を踏み薮を掻き分けて調べて見ようとされる方は極少数どころか事実上皆無であって、大半は邪馬台国本読みの半通説紛いの方々ばかりと言った有様では京都学派の専横ぶりは今後とも続く事でしょう。
しかし、“あんなところにそんな大きな古墳などがあるはずはないんですが…”と言わざるを得なかった京都学派のNダニ氏(元は小学校の教員養成大学)の半ば引きつった記者会見は見ものでした。
今後どのようにしてこの巨大古墳(?)を無き物とされるのかは興味深い上に、日本の考古学会の在り様を見据えて行きたいと思うものです。ただ、直ちに「卑弥呼の墓」などとするのは村興し町興しには使えるでしょうが(坂田先生の説…外)、内倉氏は第28代宣化天皇(センカ)陵墓説を提案されています。
なお、朝倉市には本物の継体天皇の陵墓(列島最大級の巨大円墳)があるようなのです(内倉説)。これは、また、別の機会にお話しする事としても既に一部はブログでご紹介しています(長田大塚古墳)。
思えば、「邪馬台国畿内説」なるトンデモ説の最大根拠は、列島の巨大古墳の大半が畿内に存在しており、その延長上に近畿大和朝廷が成立したとして、その前身のはずの邪馬台国も畿内にあったはずだと言った他愛もない戦前戦中以来の俗説でしかなく、その話に調教されてきたのが現京都学派でもあったのです。
今回の赤村の発見が本当に超大型古墳かどうかも分かりません。しかしの外にも豊前には多く大型古墳らしきものが放置されているのです。彼らには邪魔物でしかないこれらをどうするかを注目しましょう。
なお、グーグル・アースを使ってこの前方後円形地形を発見し、インターネット・ブログで公開された古代史研究家・石田泉城氏のブログについては、古田史学の会系の方であったことから直ちに「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)でのリンクを張っています。
本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。
この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。
人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。
なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。
ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量1100~1200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。