523 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に…② 京都府京丹後市の地名に関して
20170905
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に ①…兵庫県豊岡市 宇日、多久日の三宝荒神 で通過した兵庫県豊岡市北岸の穴見海岸を通過し、観光客が押し寄せる城崎温泉など見向きもせず、いち早く京丹後市に向かいました。
今回で四度目ぐらいの訪問になるのですが、丹後半島東岸の浦島太郎を祀る宇良神社で確認したいことがあったのでした。
その話は後回しにするとして、ここでは京丹後市で目立つ地名の問題を考える事にします。
熊本在住の女性メンバーなどに電話を入れると、秋の京丹後と聞くだけで憧れの情念が湧きあがり、良いですね…、嫉妬させようとしてるんでしょう…、羨ましがらせようと掛けたんでしょう…といった反応ばかりでした。
それほど、京都+丹後半島と言うネーミングはある種のイメージを醸成するもので、実に素晴らしい効果を産んでいるようです。
伊根と与謝野を除く丹後半島西半部が京丹後市になるのですが勿論2004年施行の新行政単位です
京丹後市で最も見たい神社と言えば当然にも大宮売(め)神社(祭神:大宮売神+若宮売神)となります。
この神社についても報告するつもりなのですが、今回、同社の鎮座地についてイメージが湧いてきましたので、報告とは別に取り上げて見たいと思います。
この神社の鎮座地の周枳(スキ)が気になるのです。枳はカラタチ。
当然にも周防の国は「スオウ」と読みますが、普通は、周瑜、周期、歯周病、円周率…と「シュウ」と読む方が圧倒的なのです。
こういった場合、周防の国の例があるように「スキ」と読むのは何らおかしくないと言う方が直ぐに出てこられるのですが、古くは「シュウキ」と呼んでいたから「周」の文字が当てられたのではないかと考えているのです。
従って、「周防」も「周+防府」と呼ばれていたと思うのです。
そして、この神社を守る一族には中国ナンバー・ワン「周」王朝の影を見てしまうのです。
それは、以前から問題としていたお隣の与謝野町の「与謝野」という地名も同様の問題を孕んでいるからです。
この「与謝野」も「ヨサノ」ではなく「ヨシャノ」と呼ばれていたから、注射器の「射」の字が当てられたと考えてきました。
実は、北部九州の発音の特性に「サ、シ、ス、セ、ソ」を「シャ、シ、シュ、シェ、ショ」と「S」音を「∫」(インテグラルエス)音で代用する傾向が顕著に認められるのです。
著しいのは北部九州でも筑豊地方で、市町村議員レベルは当然として、県議から国会議員まで、「政治決戦に勝利しよう!(シェイジケッシェンニショウリシヨウ)」「性生活(シェイシェイカツ)」「今からしようか?」を「今からシュウカ?」と言ってしまうのですから、どう考えても北部九州の物部軍団がこの地に大量に進出しているように思えるのです。
与謝野町の例を軸に考えていたのですが、京丹後でも最も重要な神社の一つの鎮座地の地名がそうであったのならば、複数の例で裏付けられたことになりそうで、まずは、密かにほくそ笑んでいたのでした。
本気で調べれば、このような例は幾らも拾えるはずですが、そんな事をやったとしても、鼻であしらわれるのが関の山でしょうから、本気で追及するつもりはありません。
まずは、言いっぱなしにしておくことが肝要で、真顔で本気に構えるべきではないでしょう。
この傾向は日本海ルートで津軽半島を越え、下北半島まで到達しているようです。
下北弁
サ行の変化 「シャ、シ、シュ、シェ、ショ」と変化し発音されることが多い。例)「背中」が「シェなが」、「様々」が「しゃまジャま」「ジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョ」と変化し発音されることが多い。例)「膝」が「ひんジャ」、「風邪」が「かんジェ」…
ついでに初見ながら言いたいことを言っておけば、周枳(スキ)は渡来系氏族(民族)によって持ち込まれたもので、「白村江の戦い」のスキ=村、城塞都市、砦集落の「スキ」「サク」「スク」… であろうと考えています。
京丹後の中心部大宮町
「サ、シ、ス、セ、ソ」を「シャ、シ、シュ、シェ、ショ」と「S」音を「∫」(インテグラルエス)音で代用する傾向で一般にも分かりやすい例は、行政用語の鮭鱒(サケマス)漁に対して、庶民は鮭(シャケ)=実際は鱒ですが… 塩鮭(シャケ、ジャケ)と言っている事はどなたもご存じのとおりです。
このような「∫」(インテグラルエス)音を好む傾向は、恐らく北部九州の海人族の移動によって海岸伝いに持ち込まれたものと考えています。
さすがに鱒を「マシュ」とまでは言っていないようで、与謝野鉄幹のご先祖も古くは「ヨシャノ」と名乗っていた時代があったと思うものです。
ただ、お酒は「オシャケ」とは言わないはずで、全てに演繹可能と言ったものではないので注意が必要です。
いっぺんに申しあげても理解してもらえないためこれぐらいにしておきますが、畿内と言うか関西に来ると言葉の問題を強く意識します。
まず、上方落語をこよなく愛するものとして、強い思いが湧いてくるのが、まず、「hi=ヒ」音と「si=シ」音との問題です。
質屋は「シチヤ」ではなく「ヒチヤ」のはずだし、七「ヒチ」は「シチ」ではない。
従って、西日本標準語を意識し、九州王朝標準語を意識するものとしては、七輪「ヒチリン」は「シチリン」ではないはず。と思うばかりです。
まず、上方落語を聴いているものとしては、江戸落語の三遊亭円生だろうが、古今亭志ん生だろうが、例外なく「質屋」(シチヤ)と言っているものが、関西では「質屋」(ヒチヤ)としか言っていない事に気づくのです。
たまたま車中で聴いていた桂 米朝の「質屋蔵」でも「質屋」は「ヒチヤ、ヒッチャ」でしかない事を、再確認したのでした。
この「質屋蔵」でも故)米朝師匠は間違いなく「ヒチヤ」と発音しているのです。
桂 米朝の「質屋蔵」 演者と演出
大阪落語の「ひちやぐら」が古くから江戸に移されて演じられていました。
熊さんの大言壮語と、いざとなったときの腰抜けぶりの落差は、現桂歌丸で聞くとたまらないおかしさです。
六代目三遊亭円生は、戦後大阪の四代目桂文団治に教わって、得意にしていましたが、最後の天神の場面を古風に風格豊かに演じました。現在では、歌丸のほか、円生門下の三遊亭円弥、同生之助らが演じ、本家大阪では、やはり桂米朝のものです。
上方のオチは、番頭が「あ、流れる思うとる」と言ってサゲるやり方もありました。
この「質屋蔵」という噺は地味ですが非常に面白く過去50回は聴いているはずですが、このCDでは前話にちょっとした小噺が入ります。
文字も書けない無筆(これも「ムシツ」ではなく「ムヒツ」ですよね…)の熊五郎が最近文字を習い始め、借りた羽織を返しに来て、棚の上に置いて帰るのですが、その伝言に習い始めた「借りた羽織は棚に置いた」の意味で「七」(ヒチ)に置いたと書いた事から、「何で勝手に質入れしたんだ…」と思っていると、たまたまやって来た熊五郎が羽織はそこの棚にあるじゃないか…となるわけです。
でも、七に入れた(質入れした)と書いてあり、何で断りも無しに勝手に質入れしたのか…となるのですが、熊五郎は「お前字を知らんな、七は七夕の七でタナ=棚と読むんじゃ…」というオチになるのです。
話が脱線しすぎましたので、これはここでおしまいにしておきます。
大宮売(め)神社(祭神:大宮売神+若宮売神)は話が流れましたので別稿とします。
上方の「質屋蔵」という噺は、「ヒチヤグラ」ではあっても決して「シチヤグラ」ではないことがお分かりいただけたのではないでしょうか?
当然、発音に関しては九州も同様で、明治以降東京の山の手方言をベースに標準語が創られたことから、七(ヒチ)は七(シチ)と読むのが正しいことになってしまったようなのです。
実際は、「ヒ」の発音が苦手な東国の戎が「シ」と発音した言語特製の全国化が影響しているのです。