525 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… ⑦ 竹野神社(京丹後市)初見
20170911
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
丹後半島を一周するとかつての經ケ御崎のタンカー座礁事故で流出した原油による汚染などが頭に過りました。
初めて半島を一周したのは、問題のタンカーを目撃できた時期で道路もあまり整備されておらず、人が歩いていると思ったら何頭もの猿の群れだったり…と思い出深いものでした。
あの頃からすると神秘性が失われ、その分落ち着いて考える事もできるようになってきました。
この座礁したタンカーを目撃しただけにそのロケーションと言い強い印象は消えていません。
この経ヶ岬には航空自衛隊の分屯基地(京都府京丹後市袖志無番地 第35警戒隊)があり入間基地の分屯基地になるようです。
まさに朝鮮半島と一衣帯水の地であり、多くの渡来系氏族(徐福=ジェオセフ?)が入ってくる地であることを再認識した次第です。特に朝鮮半島の東半部から船で出れば自ずと但馬から丹後辺りに漂着するのは理の当然であって、古来、百済系(半島南西岸)というよりも新羅系の人々が雪崩れ込む環境にあった事が理解されるのです。
式内社 丹後國竹野郡 竹野神社 大 旧府社
御祭神 天照皇大神 斎宮神社 竹野媛命 建豊波豆羅和氣命 日子坐王命
竹野神社 カーナビ検索 京都府京丹後市丹後町宮249 ℡0772-75-0600
式内社 丹後國竹野郡 竹野神社 大 旧府社 御祭神 天照皇大神
斎宮神社 竹野媛命 建豊波豆羅和氣命 日子坐王命古くは「タカノ」と呼ばれていたが現在は「タケノ」。 社伝によると、丹波大県主由碁理の娘で、開化天皇の妃であった竹野媛が年老いて後、天照大神を祀ったのが当社の起源。本殿脇の摂社・斎宮神社の祭神は、開化天皇皇子で丹波道主命の父である日子坐王命、開化天皇皇子で丹波竹野別の祖・建豊波豆羅和氣命、そして竹野媛命。一説には建豊波豆羅和氣命ではなく、竹野媛命の皇子・彦湯産隅命。…
境内には幾つかの境内社があるが詳細はわからなかった。『明治神社誌料』には、斎宮神社、門斎神社、伊豆神社、稲荷神社、十二神社、野々宮神社、厳島神社、愛宕神社の名が記されている。『式内社調査報告』には、上記に加え、上神明神社、下神明神社、大社、矢崎神社の名が載っている。厳島神社は池の中の小祠だと思う。 敬愛する玄松子による
百嶋由一郎金神神代系譜
四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。
『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。なお、崇神天皇は3世紀から4世紀の人物とされている。
『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦命は別名で記載されている。
また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。
四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。
大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后・鬱色謎命(うつしこめのみこと)。開化天皇の同母兄で、娘は崇神天皇皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと)、垂仁天皇の外祖父に当たる。舟津神社(福井県鯖江市)、敢国神社(三重県伊賀市)、伊佐須美神社(福島県会津美里町)、古四王神社(秋田県秋田市)等に祀られている。敢国神社の社伝によると同神社より北東1.5Kmの所に位置する御墓山古墳は大彦命の御陵とする。敢国神社の鎮座する三重県伊賀市は大彦命の子孫である阿閉臣(阿敢臣)の発祥の地とされる伝承も残されている。
武渟川別は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。津神社(岐阜県岐阜市)、健田須賀神社(茨城県結城市)等に祀られている。
また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。
吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、古事記には吉備津彦の名は出てこない。桃太郎のモデルの一つであったとも言われている。吉備津神社、吉備津彦神社(岡山県岡山市)、田村神社(香川県高松市)等に祀られている。
丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子、彦坐王の子。なお、古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)。景行天皇の外祖父に当たる。神谷神社(京都府京丹後市)等に祀られている。
当然ながら四道将軍も近畿大和朝廷が送り込んだものなどとされていますが、とんでもない大嘘で、九州王朝の開化天皇=高良玉垂命が只の臣下でしかない崇神以下に命じて送り込んだもので、全て九州に縁のある将軍なのです。
この竹野神社にもその一派たる丹波道主命の一族が入っているため開化の名が出てくるのです。
従って、神殿の扉にも三五の桐紋が打たれており、この一族が天皇家と姻戚関係にある事を示しているのです。金神系譜を読み取る事から始めましょう。多分筑後の旧竹野郡(久留米市)と関係があるのです。
研究目的で百嶋神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください