529 早朝に遭遇した湧水の神社 “宮崎県宮崎市の今泉神社”
20171005
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
内倉武久氏と共に宮崎県の宮崎市(日南海岸)から日南市の神社の調査に入ったのですが、宮崎市の中心部にお住いのK氏(古田史学の会会員)と三人で宴会した後、内倉先生まで野営にお誘いする事にしました。
始めはビジネス・ホテルに泊まると言われていたのですが、どうせ寝るだけだし、夕方五時には佐土原温泉に入っていましたので金を払うだけバカバカしいと悪の道に誘い込み、私は車中泊、内倉先生は私が持参した超簡易式テントで寝て頂くことにしました。
私だけならばどこでも良いのですが、内倉先生をお連れする以上はまともな場所を選ぶこととして、宮崎ICから一区間も走らず、清武パーキング・エリアを車中泊地に選びました。
車中泊を行う場合、最も気を遣うのは場所の選定です。
安全で、水やトイレや飲料などが手に入れやすい場所が最適となります。
このような場所は高速のパーキング・エリアが最適の候補地で安全性も文句有りません。
何故なら、犯罪の問題も監視カメラや車両ナンバーの読み撮り装置によって予防されているからです。
ともあれ、翌朝、6時には出発の準備を行い、最初に遭遇したのが今泉神社でした。
ICからも宮崎大学医学部からも近く、住宅街の一角とも農村部の一角とも言えそうな場所ですが、今泉の名の通り、豊かな水の溢れる神社でした。
このような、意識せず遭遇した神社は探す必要もなく先入観もない事から、概してしばしば成果が上がるものなのです。
一般的に、宮崎県、鹿児島県の神社に関しては明治維新によって相当に祭神がいじられているようで、神社誌を買う気もなく、どうせ、記紀に沿って改竄がされているだろうと言った思いが走ります。
ともあれ、宮崎県では、非常に参考になるサイトがあり、必ず見る様にしている「宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~」運営:宮崎県神道青年会 というものがあります(以下)。
創建はつまびらかではないが、口伝えによると、神代の昔、天御中主神が清武町円目岳に降臨したことにより当地に祀ったと伝える。後陽成天皇の慶長十一年(1606)十月七日、すなわち領主藤原朝臣祐慶(第二台飫肥藩主)の時に、大宮司川越源八郎は円目岳が険阻にして参拝に不便であったため、領主の命により現在地に移したという。
なお今泉神社については次のような社伝がある。
清武村の今泉を流れて清武川の上使橋付近に落ちる支流を水無川という。
小春日和のある日、今泉の里の婆さんが水無川で塩漬けにする大根を山と積んで洗っていた。その時川下から土手をつたって、白衣の老人が杖を便りに歩いて来た。
老人は足を止めて、「私にその大根を一本恵んで下され。」といった。人声に驚いて後を振り向いた婆さんは「これは漬物にするので、人にやる為に作ったのではない。」と無愛想に答えた。老人は「その小さいのでもよい。」といって婆さんの足もとに転がっているのを指した。そして「私は三日三晩何も食わずにいる。」と付け足した。しかし婆さんは「自業自得だ、私の知ったことではない。」と言いながらごしごしと大根を洗っていた。「この水が無くなっても宜しいか。」と老人が怒り気味でいったが婆さんはとり合わなかった。
老人は木のこんもりと茂っている処へ辿りつき、何か口の中で唱えながら、川の中に自分の枝に突きさした。川底に穴が空いて水はどんどん地下にしみこんでしまった。「これが報いだ。」老人はこういって川上へ歩いていった。
清武村の西南に一際目立って高い円目山がある。その山の南側に妙見様が祀ってあった。清武村、特にその今泉の人達は深く信仰していて、夏の日照りの雨乞いには必ずここにお祈りした。しかしその人々の中に塩の漬物を持っていくものがあったら、その人は必ず腹痛を起こして一人ではとても下山が出来ない程になる。そこでいつしか「あの川の水を無くしたのは妙見様だろう。」と言い伝えるようになった。そして「あんな辺鄙な山奥に祀ったのでは、もったいない。」といい、今泉の人達が主となって地区から五、六町の西南方に神社を建てて祀ることになった。これが今の今泉神社で、付近の農民の崇拝の的となっている。
御祭神 天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)旧村社
今泉神社 カーナビ検索 宮崎県宮崎市清武町今泉丙1525
御祭神を 天御中主神(アメノミナカヌシ)とする旧村社というだけで一つのイメージが湧いてきます。
なかなかないのですが、一社、一殿、一神というシンプルな神社であり、祭神の入れ替わりも起こっていないはずで、まずは、鹿児島、宮崎では特に珍しい神社と言えるでしょう。
では、百嶋由一郎氏による最終神代系譜からこの神様がどのような方であるかをご確認頂きましょう。
近畿大和朝廷以降通説派に奉伺し続けて来た神社関係の学者が良く言う話ですが、“天照大御神を祀る神社などどこにも存在しない…従ってこのような神様はもとより架空に過ぎない…”などと良く調べもせずに言う連中がいるのですが(こいつらは何も調べずに好い加減な話をしているだけなんです)、この神社も目に入らなかったのでしょう。
勿論、私自身も初見の神社であり偉そうなことは言えないのですが、最低でも、福岡県那珂川町の一角、那珂川の畔に天御中主神社が実在性を帯びて存在している事を承知しており、この神社は嬉しい発見になった訳です。
勿論、古代、神代に於いては全くの田舎でしかなかった奈良の山の中などにこの神代でも大元のような神様が祀られているはずもなく、今泉神社という名の通り、天御中主神社の派生神社の一つである可能性はあるのではないかと思います。
何故ならば、この「泉」という地名は九州王朝の初期から全期間を通じて支え続けた白族系の拠点を意味する地名である事を知っていることから(佐賀県佐賀市久保泉、熊本県氷川町泉…)、この中心氏族の新たな展開地と考えられるからです。
従って、湧水はあるものの、この今泉の泉の意味は、明らかに湧水の意味ではなく地名としてのニュー泉の事の様に思えるのです。泉佐野、泉大野、泉大津も同様の意味で一族の展開地だと考えます。
古代には潮が上がっていたはずの感潮域を目の前に山の麓で湧水が噴き出す農耕最適地に鎮座しています
毎度使わせて頂く「姓名分布&ランキング」ですがまさに宮崎に展開した白族系の神官なのでしょう
社殿向かって左には稲荷神社置かれています。
豊受大神も一族ですので当然ですが、奥に摂社が見えます。祭神が書いていないため不明ですが、天御中主命の関係者となると、夫神たるウマシアシカビヒコヂではないかと早とちりしてしまいました。
勿論可能性はあるのですが、右側にも同等の摂社が置かれており、単純には決めつけられません。
これについては宮司にお尋ねするより方法がありません。
一般的にはこのような天地開闢神を祀る氏族は少ないのですが、中国大陸に留まった白族も他の民族との混血を好まず初期の血統を維持しようとする傾向がありそれがこの白族の特徴と考えています。
今泉神社
「当神社の祭神は天御中主の大神を奉祀し、神社記録に依れば天古神代大字今泉字圓目小字圓目岳に臨御し賜。後陽成天皇紀元二二六六年(西暦一六〇六年)慶長十一年十月七日領主藤原朝臣祐慶公御代大宮司川越源八郎の代、圓目岳険阻にして詣拝不便其の他種々の事由に依り領主の命にて現所に奉御遷座諸殿を新築し、明暦三年九月十五日領主藤原朝臣祐久公御代大宮司川越佐兵衛藤原忠次の御代神殿舞殿拝殿其の他の属社に修繕を加え、元禄十三年三月十六日領主藤原朝臣祐實公御代大宮司川越加兵衛の代に至り各殿属社の大修繕を行い文化十年九月十六日川越和泉諸殿を修繕し、明治十二年一月宮司川越字平の御代各殿を修復し、更に其の他諸殿を新築し、大正十五年十一月十日宮司川越直良の代神殿を新築し、昭和十六年拝殿の改修社務所の移転其の他神苑の美化を行い現在に至り、本年御遷宮より三百七十年と現在の御神殿改築が五十周年に当るので、宮司川越實の御代氏子崇敬者と相謀り神社基金の一部と氏子の浄財と特別寄附金を以て正面階段の改修及び駐車場の新設並に公園の造成其の他神苑の美化を行い、昭和五十二年十月末完成する依て神社の大要を刻し後世に之を伝え御神徳の高揚と敬神の念を養い併せて氏子崇敬者の憩の場所とするため此の碑を建立する」
昭和五十二年十月十七日
宮司選
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
博多の櫛田神社の主神である大幡主=ヤタガラスの父神にとって天御中主命は伯母さんにあたります。
裏天皇との話も飛び交っていますが、彼らは同族婚を好むのかも知れません。
研究目的で百嶋由一郎最終神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。