extra16 宇佐神宮とは何か? ⑯ “勅使来訪により呉橋が一般公開された”そこで見たものは!
「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載
20150529
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
宇佐神宮の呉橋が一般公開されるとの耳寄りな情報が入りました。
始めは行かないつもりだったのですが、後悔しそうな気がして急遽予定を変更し、丁度久留米大学の公開講座の講演で九州に来られていた内倉武久氏と川崎町在住のN氏と三人で宇佐に乗り込むことにしました。
呉橋は普段は渡ることが出来ません。この中がどうなっているのかは以前から気にしていました。
まさか柵を越えて勝手に入るわけにも行かず(恐らく不法侵入罪に相当)、問題を棚上げにしていたのですが、いい機会が巡ってきたものです。
8億円を掛けた上宮の大改装に伴う勅使の来訪に伴い一般公開となった次第のようですが、ちょと奇妙な感じはします。
勅使来訪だからこそ、一般の者は一切通行させないとするのが普通のような気がするのですが、まあ、それはどうでも良いことです。
呉橋公開となれば多くの方が押し掛けるのではないかと考えていたのですが、平日とあってか、いたって参詣者も少なく、ゆっくり落ち着いて見学することが出来ました。
当 方は、内部に装飾や、文字などが残されていないか?何故、宇佐神宮に呉橋が置かれているかが推察できる何らかの情報が残されているのではないか…と、色め き立っていたのですが、中に入ると意外とシンプルで、装飾と言っても、一つ巴の神紋が一定の間隔で彫られていただけでした。
勿論、入口には公式の宇佐神宮の神紋とされている左三つ巴(足長)紋が打たれていますが、内部には何故か一つ巴が打たれていたのです。
一つ巴紋となると、直ぐに思いつくのが、お隣の中津市の薦神社であり、ここには神殿の方々に、一つ巴、二つ巴、三つ巴紋が付され、確か御賽銭箱が一つ巴だったように記憶しています。
薦神社は到津家が追放される前までの宇佐神宮宮司代行を出していた神社であり、同じく呉橋が置かれている事で知られていますが、この神社については第10代とされる贈)崇神天皇の関係した神社であるといった趣旨で、故百嶋由一郎先生も話しておられました。
その第10代贈)崇神天皇の神紋こそ一つ巴であり、薦神社の呉橋の内側にも同様の神紋が打たれている可能性が急浮上してきました。
やはり、現地は自分の目で確認すべしと思うばかりです。
恐らく!久留米市大善寺玉垂宮――西に向かう――(呉橋)薦神社――(呉橋)宇佐神宮
まず、呉橋については、宇佐神宮が何故「呉橋」を残しているのかという問題が横たわっています。
宇佐神宮自体でも答えに窮してか、「呉の工人によって掛けられたから呉橋と呼ばれている…」といったほとんど回答にならないもので済ませてあります。
呉の工人とは「三国志」の呉ではなく、春秋戦国の呉のはずですから、直接、宇佐神宮と結びつくとは考えようがないのです。
私自身も宇佐神宮の性格からどう考えても結びつかない事から、ずっと疑問だったのですが、百嶋由一郎先生の答えは明確でした。
① 宇佐神宮も元は九州王朝の神宮だった。
② 九州王朝の正統皇統は呉の太伯(従って中国ナンバー・ワン周王朝)の末裔であったから呉橋を使っていた。
③ 応神天皇など正統皇統の天皇ではない(別王)=ワケオウ ため呉橋を渡る資格はなかった。
以下は古川による推測
④ 宇佐神宮は九州王朝の神宮を簒奪した証拠、若しくは、戦利品として呉橋を残している。
⑤ 薦神社から大富神社、大分八幡宮、太宰府を経由し、高良大社、大善寺玉垂宮へと古代の勅使道は延びていた。