extra18 宇佐神宮とは何か? ⑱ “宇佐神宮の(仮称)中宮に鎮座する若宮神社とは何か?”
「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載
20150609
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
宇佐神宮の下宮から上宮へと向かう参拝道の中ほどに、その立ち位置から勝手に中宮と名付けている若宮神社が鎮座しています。
神社の縁起書、由緒書きをそのまま真に受ける人はともかくとして、神社の性格を解明するには配置されている境内社、摂社を分析する事は極めて重要です。
本来ならば、書かれているものをそのまま信じ込みたいのですが、いかなる時代に於いても、その時々の政情、時勢によって、多くの神社が本来の祭神を隠し、偽り、入れ替え、新たに加え、酷い場合は、全く異なる神々を祭りが自らを守る事さえあるのです。
ただ、この日本と言う国の幸せな事は、容易に外敵に晒される事がなかったため、許容力、包容力が大きく(あくまでも相対的にですが)、完全に本来の神様が捨て去られ、埋められ、焼かれるなどと言う事はほとんど起こりません。
従って、境内社、摂社、社殿の配置、類型の同種の神社などと併せ考えれば、本来の祭神が誰であったのかが類推、演繹することが可能な場合が多いのです。
ただ、そのためには数年の努力では不可能であり、百嶋先生も、「四十、五十は鼻垂れ小僧…」(神社歴二十、三十年)と良く言われていました。
あくまでも、当方の話も、神社探訪五~十年の鼻垂れ小僧の論としてお聴き頂きたいのですが、今回の宇佐神宮の訪問により、多少とも、真実、若しくは、真実への糸口を発見した思いがしましたので、乱暴ながら、一つの仮説を提出させて頂きたいと思うものです。
その中宮ですが、誰が祀られているかについては以前から考えあぐねて来ました。
大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)仁徳天皇他4神を祭る若宮神社
この「若宮神社」が筑後ばかりではなく九州全域に分布しています。
一般的に若宮という場合、大きな功績を残した大王の皇太子の意味であり、宇佐神宮の場合の若宮が応神天皇そのものを言うはずもなく、宇佐神宮にとっての若宮が誰かのイメージが全く湧いてこないのです。
そもそも、応神天皇自体が大きな業績を残した天皇などとは言えないのであって、父が仲哀天皇、母が神功皇后=息長足姫尊(オキナガタラシヒメミコト)とされることもあることから、応神自体は神功皇后の業績からして、辛うじて若宮の尊称を受ける資格がある程度なのですが本殿におられますね。
ここで、高良大社の現宮司から六年ほど前に直接聴いた話が思い起こされます。
もう、どのような話の流れで言われたのかを忘れてしまったのですが、ある年の大祭の折り、「若宮神社というのは全て高良大社の神社(のもの)なんだから…」と話されていたのを今でも鮮明に覚えています。
鹿児島県の薩摩半島でさえ若宮神社を見掛けていたことから、筑後に数多く分布する若宮神社が何であるかを強く意識していた時だけにその印象は鮮烈でした。
結論だけを言えば、今のところ若宮神社とは高良玉垂命の若宮を言うものと理解しています。
その前に、国東半島一帯(国東とは九州王朝の東の意!)では、宇佐神宮の直ぐ隣であるにも関わらず、石清水八幡系の神社が数多く存在し、その境内社として高良神社と若宮神社が祀られている例が数多く認められます(これについては別稿とします)。
そして、その若宮神社の多くが大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)仁徳天皇を祀っているのです。
当初、宇佐神宮の若宮神社にはあまり注意を払っておらず、全くもって本気では考えていませんでした。
ところが、今回、十度目の訪問でようやく気付いたのですが、この若宮が高良玉垂の命の若宮と考えれば整合性があるのではないかと思ったのでした。
これは、久留米の方は誰でもご存知なのですが、高良大社、高良山北側の膝元、山川町の高良大社への古参道に鎮座する高良皇子神社には高良玉垂命の九人の王子が祀られています。
高良御子神社(久留米市山川町)
この神社には地元郷土史会の研究による立派な神社縁起が置かれ、高良玉垂命の九人の皇子がずらりと並べられています。
重要なのは、この筆頭者の斯礼賀志命が誰なのかです。
これについて迫った人は九州王朝論者でも極わずかであり、1998年に書かれた「稲員家と三種の神宝」(古田史学会報 1998年 6月10日 No.26)などで触れてあります。
さて、最後に玉垂命の末裔についてもう一つ判明したことを報告して本稿を締めくくろう。初代玉 垂命には九人の皇子がいたことは前号にて報告したが、次男朝日豊盛命の子孫が高良山を居所として累代続き(稲員家もその子孫)、長男の斯礼賀志命は朝廷に臣として仕えたとされているのだが、その朝廷が太宰府なのかどうか、今一つ判らなかった。それがようやく判明した。高良大社発行『高良玉 垂宮神秘書同紙背』所収の大善寺玉垂宮の解説に次の通り記されていた。
「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」
玉垂命の長男、斯礼賀志命の末裔が、三瀦の大善寺玉垂宮大祝職であった隈氏ということであれば、斯礼賀志命が行った朝廷とは当時の王都、三瀦だったのだ。すなわち、長男は都の三瀦で政治を行い、次男の家系は上宮(高良山)で神事を司ったのではあるまいか。
古賀達也氏は、『新・古代学』古田武彦とともに 第4集 1999年 新泉社 九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都 に於いても以下の様に書いておられます。
玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳七八年(三九〇)に没しているので、倭の五王最初の讃の直前の倭王に相当するようだ。『宋書』によれば倭王讃の朝貢記 事は永初二年(四二一)であり、『梁書』には「晋安帝の時、倭王賛有り」とあって、東晋の安帝(在位 三九六~四一八)の頃には即位していたと見られることも、この考えを支持する。
さらに現地(高良山)記 録にもこのことと一致する記事がある。『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として 仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累 代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃 死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えら れる。この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。
この九人の皇子のうち、上位五人が正室の皇子であり、四人が側室の子であり、その筆頭の斯礼賀志命こそが仁徳天皇であり、事実上九州王朝の最後の天皇であった。”との衝撃的な話をされていたのが、例によって、神社考古学者の故百嶋由一郎先生でした。
神武―懿徳―孝霊―孝元―開化と続いた九州王朝の最後の天皇が仁徳であり、高良玉垂命(開化天皇)と神功皇后との間に生まれた五人の皇子の長男こそが仁徳天皇だったとされているのです。
そうです、高良玉垂命(第10代開化天皇)と神功皇后との間に生まれた正室の皇太子の長男=斯礼賀志命が藤原により第16代とされた仁徳天皇だったのです。
九人の皇子とばかり考えて来たのでこれまで全く見落としてきたのですが、もしも、正室の五人の皇子が、この若宮神社に祀られている大鷦鷯尊=仁徳天皇以下四人に対応するとすれば、話は非常に上手く繋がるのであって、この若宮神社は宇佐神宮が高良大社にとって代わる八世紀半ば以来ずっとこの地に祀られていた可能性が高く、宇佐神宮が九州王朝の神宮だった事を示すものになるのかも知れません。
勿論、応神天皇の子が仁徳天皇とされているのですから、容易に証明できるとは考えられませんが、現在、この若宮神社についてさらに調査を進めているところです。
最後にもう一つの可能性を考えて見ましょう。仁徳は応神の第四皇子とされていますが、九躰皇子の側室の皇子の一人が応神天皇となったかも知れないのです。
この背後には宇佐神宮の勢力地図を垣間見せてくれる北辰神社、春日神社、住吉神社を奉祭した氏族が関係している事でしょう。
応神天皇には春日神社を奉祭する氏族(藤原氏)が背後についていたはずであり、その後の展開もそれを表しています。
また、私達、百嶋神社考古学の立場からは、藤原氏が阿蘇氏の流れから生み出されたことも見て取れるのです。
故)百嶋由一郎作成の基本神代系譜から切り出したもの
「高良玉垂宮神秘書」をじっくりお読み下さい。
通説では応神の子が仁徳とされていますが、これも大嘘でしょう。