extra19 宇佐神宮とは何か? ⑲ “宇佐神宮の隣の国東に鎮座する八幡神社の境内社について”
「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載
20150609
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
写真は国東半島国見町の岐部神社境内から見た岐部の集落です。
伊美の別宮社、岐部神社、ケベス神社…には高良社、若宮社を境内摂社として持つものが多い
国東は一般にも、古来、紀氏の領域であったと言われてきました。
恐らく、岐部の「岐」も「紀」「姫」を置き換えたものなのです。一部の例外はあるものの、国東半島全域に宇佐とは異なる岩清水神社系の八幡神が勧請されてお り、境内社として頻繁に見かける若宮社もこの地では応神ではなく仁徳が祀られています(宇佐八幡宮の若宮も仁徳ですが…)。
そもそも、岩清水八幡は橘 諸兄の末裔が宇佐から勧請したもので、岩清水の正面には、今も、高良神社が鎮座しているように、この一帯にも高良社を祀っているものがかなりあります。
現在、国東といわず筑後以外に高良玉垂宮はほとんど確認されません(九州でも島原半島、武雄市、日田市、南さつま市などに数例がありますが)。
この伊美別宮、岩倉社、岐部神社…は、いずれも元は高良神社であった可能性があり、なお、半島全域の調査を続けています。
次の写真は大分県国東市国見町の伊美別宮八幡宮本殿に渡る美しい石積の参道です。
二〇一三年、姫島正面に向かうこの国東先端の地を探訪しましたが、一帯に鎮座する八幡宮の多くが、元々は高良玉垂命を祀る神社だったのではないかを探るためでした。
その当否については、ご自分の厳しい目による判断に待つこととしますが、この国東の地は紀氏の領域地だったのです。
その一つの象徴がこの伊美別宮であり、別宮とは京都の石清水八幡宮の別宮の意味なのです。
石清水八幡と言えば、吉田兼好が「徒然草」に
「ごくらくじ・こうらなどをおがみて、かばかりとこころえてかえりにけり」…「すこしのことにも、せんだつはあらまほしきことなり」(58段)、“ある仁和寺の僧が、山上の石清水八幡宮には参拝せず、極楽寺、高良神社を拝んで帰ってしまった。”…
と、書いたことでも知られますが、石清水八幡宮の摂社に高良神社があるように、国東の一帯にも高良神社が境内社として置かれているのです。
それは石清水八幡を建てた一族が橘氏=姫氏であることと関係しているからでしょう。
そもそも、国東半島正面の島が姫島と呼ばれていることとも通底しています(姫=紀?)。さて、国東半島という名は不思議です。
ど のように考えても、畿内、大和の側から見た国の東でないことは明らかです。国東とは、九州本島=九州王朝直轄領域の東の地との意と考えるのですが、故百嶋 由一郎氏による、「国東半島に行きなさい。あそこには宇佐の隣であるにもかかわらず、系統の異なる石清水八幡が勧請されています」「九州王朝を最期まで守 ろうとしたのは橘氏の一族ですよ」との話が今になって分かるようになりました。
まさに、「せんだつはあらまほしきことなり」です。
次もその証拠の一つです。
上の写真は、国東半島も姫島の正面に位置する伊美港に隣接する伊美別宮社にある石碑です。
同社は戦前に縣社に昇格したのですが、その時の記念碑です。普通は見過ごしてしまうものでしょう。
太宰府地名研究会は、昨年の12月に30人規模のトレッキングを行いましたが、そのテーマは、「国東半島に高良宮を探る!」でした。
事実、この別宮社にも、隣のケベス祭りで有名な磐倉社にも両脇には高良宮と仁徳天皇が若宮社として祀られています。
そもそも、この国東一帯には宇佐神宮とは別系統の石清水八幡が勧請され、何故か高良の神が祀られているのです。
そこで、この縣社昇格記念碑を見ると、なんと、揮毫した人物は当時の高良大社の矢田宮司だったのです。つまり、国東半島の八幡宮の本当の祭神は高良の神なのです。
石清水八幡宮とは九州王朝の中枢部を荷った紀氏(橘一族…)の僧侶によって創られたものです。
国東半島の調査は今後も続けますが、紀氏、橘一族、高良大社、九州王朝が国東の謎を解く鍵になりそうです。
紀氏は九州王朝系氏族として、何度も続く藤原王朝の中の弾圧にも生き延びますが、今でも国東には橘氏の紋章が数多く目につきます。
彼らは権力を理解し宇佐八幡を奉りつつ密かに高良の神々を守り続けたのです。
そうです。国東とは九州王朝直轄領域の東なのです。
最後にもう一つ、これは福永晋三氏が言われていることですが、大善寺玉垂宮の鬼夜と同じ祭りが、西の端、佐賀長崎の県境の観世音寺から、東の端の国東の天然寺で行われているのです。これも九州王朝の祭りの痕跡のようです。