extra20 宇佐神宮とは何か? ⑳ “宇佐神宮の勅使井と百体神社”
「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載
20150610
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
宇佐神宮の呉橋一般公開に併せて上宮や神宮に隣接する大善寺を見て、少し離れた勅使道沿いに置かれた化粧井戸(私は勅使井戸と呼びますが)と百体神社を随行者の内倉武久氏、中野 某氏と一緒に見に行きました(初見)。
つうじょうの参拝コースからは外れており、大尾神社、大元神社、鷹居社と同様に、一般にはまず訪れないところでしょう。
化粧井戸とは言うものの、大富神社に置かれた勅使井戸同様、立派な設えの堂々たる石造りの掘抜き井戸でした。
「百體殿」という名の通り、通常の神を崇め祀る神社ではなく、百人(恐らくそれ以上)の隼人を殺した祟りを鎮めるための霊廟というのが本質です。
従って、御利益を得るような神社ではなく、本来は賽銭箱も置かない(御利益はないから)ものであり、自らの悪業から祟りを恐れ鎮めるための廟に近いものなのです。
しかし、百體殿の「體」=体(旧字の体)は、戦前は使っていたのですが、久しぶりに実見しました。
現在は、中華民国(台湾)と一部の華僑圏しか使われない漢字ですが、それはともかく、重要なのは「松隈」という地名です。
既 に、「隈」地名が非常に重要である事はこれまでにも書いてきましたが、恐らく、「隈」地名は肥後の熊本(元は隈本と書かれ、加藤清正により熊本と変更さ れ、現在は千葉城と変更された)が起源であり、この地名を使った博多の櫛田神社の大幡主(オオハタヌシ)の一族が佐賀県東部から小郡、甘木、朝倉から日 田、そして、博多周辺に展開した白族が持ち込んだものなのです。
この地名を使う人々こそ、九州王朝を支えた氏族=民族と考えていますが、かつてこの地に住んだ人々が隼人と共に葬り去られたのか、宇佐神宮と一緒になって隼人を征伐したのかが解りません。
ただ、この謎を解く鍵と言えるようなものに気付きました。
それは、この百體殿の造り方です。見てお分かりになるように、本殿の外側に蓋いを掛けて本殿を風雨から守ってあります。
このような建築様式を通常「鞘(さや)殿」と呼び習わしていますが、筑後地方に異常に多く分布しており、私達は筑後物部の領域の建築様式と考えています。
ただ、豊前地方にそれがないかと言うと、筑豊はもとより、豊前、中津、宇佐、国東でも散見されるもので、この様式の社殿があると、まずは筑後物部が展開した集落ではないかと考える事にしています。
この様式を百體殿に見たとき、一般に隼人の乱とされるものの本質が多少とも見えた思いがしています。
直ぐに結論に飛びつくのは乱暴なうえに、危険ですが、このような視点を持って、和間神社の放生会、宇佐神宮の本質、九州王朝から近畿大和朝廷への転換を今後とも考えて行きたいと思います。
どうやら、隼人の乱の鎮圧とは、単なる南方系蛮族の鎮圧などと言った創られたものでは全くなく、百済系、新羅系、秦系、高句麗系など渡来系氏族は元より、物部氏、九州王朝系氏族を巻き込んだ大規模な内乱、内戦だったようです。