スポット187(後) 赤村の超巨大古墳 ⑨僭越ながらも卑弥呼の墓とお考えの方々に対して(上)
20180530
太宰府地名研究会 古川 清久
5 墳と冢 つづき 2018/5/23(水) 午後 9:17
「冢」と「墳」について、『広辞苑』第四版では、「冢」は「土を高く盛って築いた墓、また単に、墓のこと」とあり「墳」は「土を盛り上げた墓」とあります。
また、最古の部首別漢字字典『説文解字』(西暦100年成立)にて文字の意味を確認します。
冢:高墳也。从勹豖聲。(中國哲學書電子化計劃、5783頁)
墳:墓也。从土賁聲。(同、9095頁)
陵:大𨸏也。从𨸏夌聲。(同、9569頁)
𨸏:大陸,山無石者。象形。凡𨸏之屬皆从𨸏。(同、9568頁)
「冢」は、「高い墳」を意味し、文字は「勹」と「豖」から成り「豖(ちょう)」が声音とあります。「冢」が本字で「塚」は、その異体字です。
「墳」は、単に「墓」とあります。「土」と「賁」から成り「賁(ふん)」が声音とあります。
つまり『説文解字』においては、「墳」には、「高い」や「大きい」の意味はありません。一方、「冢」は高い墳で、墳は墓を意味しますから、「冢」はすなわち高い墓です。
なお、「陵」は、「大きな丘」を意味し古代も現代も意味に変わりはありません。
│区分│説文解字(古代)│ 広辞苑(現代)
│冢 │高墳也(高い墓)│土を高く盛って築いた墓、また単に墓のこと
│墳 │墳也 ( 墓 ) │土を盛り上げた墓
「冢」は、古代には、高い墳だけを意味していたのが、近代では単なる墓をも意味するように意味が広がったようです。これに対して「墳」は、古代には単なる墓であったのが、土を盛り上げた墓に意味が限定されたようです。
いずれにしても、古代では「高く盛った」のは「冢」の方です。したがって、古代における文字の意味としては、「冢」の方が「墳」より小さいとはいえません。むしろ「冢」は、高く盛られていたようです。
6 冢の高さ 2018/5/24(木) 午後 1:50
「冢」は、棺を納める程度で足りるから、あまり高くないという宝賀氏の主張は、一般論としては十分に理解できます。しかし、『三国志』においては、明らかに陵墓とわかるものに、高さの記載が1か所もありませんし、「大作冢」と特殊な記載をした例もありませんので、卑彌呼の冢について高さが記述されていないから、あまり高くなかったという推論には不満です。
先の「5 墳と冢」の項目で、古代における「冢」と「墳」の文字の違いを示したように、「墳」が単なる墓の意味であったのが「冢」は高い墓の意味であったので、むしろ「冢」の方が「高い」という意味合いが強いようです。
倭人の冢について、次の記事があります。
其死,有棺無槨,封土作冢。
(中華書局版『三國志』魏書、烏丸鮮卑東夷傳、855頁)
倭人の冢は「封土」で作られているとされます。同様に、卑彌呼の冢についても「封土」で作られていることは言うまでもありません。「封土」は墳墓の盛り土をいいますから、ニュアンスの問題ですが、卑彌呼の冢には、高さがあまりないというよりは、一定の高さがあったと理解するほうが妥当です。
また、卑彌呼の冢の大きさによっては、面的な大きさに比例して高さも増すことが考えられます。
7 墳墓の規模についての具体例 2018/5/24(木) 午後 1:50
宝賀氏は、先の論考で九州北部における弥生時代の墳墓の大きさについて、次のように具体例を示されています。
早良平野の樋渡遺跡(福岡市西区)の墳丘墓では、径二五~二六Mの楕円形土盛りであり(王巍氏は、東西約二四M、南北約二五Mの方形という)、高さが約二・五Mであって、中央部に木棺一基、少し離れて石棺が一基あり、甕棺も二五基以上(そのうち、六基に前漢鏡・銅剣・鉄剣などの副葬品がある)とされる。
<中略>
佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、樋渡遺跡より格段に進んだ「版築」という大陸系の技法をもち(古墳にはよく見られるが、弥生遺跡では初めて確認された)、規模もさらに大きくなる墳丘墓が見つかった。環濠集落の北部にあって一番見晴らしの良い場所に位置する墳丘墓は、南北約三九M、東西約二六Mの長方形であり、現在の高さ約二・五M、本来では約四・五M以上だったとみられている。墳丘は地山整形したのち、黒色土を高さ一M強ほど積み上げ、さらにその上に版築状に盛り土をしている。このなかに十四基の甕棺墓が確認され、うち八基から銅剣などの副葬品が発見された。また、この墳丘墓の南約一キロの地点でも、ほぼ同時期の墳丘墓が発見されており、一辺三四Mの方形で現存の高さが約一Mとされる。
<中略>
こうした事情からみると、卑弥呼の墓が弥生後期ないし終末期の北九州にあったとする場合には、規模では最大三〇ないし四〇Mほどの径であって、封土の高さが最高で五Mほどとなろう。
要するに、冢の大きさについて、九州北部の弥生後期のいろいろな墳墓の具体例から、最大で40m、高さ5m程度であるので、卑彌呼の冢もその程度であるとされます。
現在認められる九州北部の墳墓は巨大ではないとの状況は理解できますが、卑彌呼の冢がそれらの事例と同程度というのには疑問があります。
というのも、例示された墳墓の樋渡遺跡や吉野ケ里遺跡の墳丘墓については、規模が最大40mほどですが、埋葬数は、樋渡遺跡が25基程、吉野ケ里遺跡の墳丘墓が14基であって、卑彌呼の冢の「殉葬者奴婢百餘人」には到底及びません。殉葬者数からして、卑彌呼の冢はもっと面的に広がりがありそうです。
大作冢8 「大いに」 2018/5/28(月) 午前 8:03
古田氏は、先の著書において「大いに冢を作る」の記述に関して次のように説明されています。
もっとも、読者の中には、つぎのような疑問をもつ人もあるかもしれない。“三十メートル程度の墓では、「大いに冢を作る」とは、いえないのではないか”と。
これに対して二つの側面から考える必要がある。
その第一は、「仁徳陵」や「応神陵」のような巨大古墳の存在を見た、その「同じ目」で、この「大いに」という修飾の文字を見てはならない、ということである。
<中略>
第二に問題とすべきは、この一句の正確な文脈理解である。
これは、「大作レ冢」(大いに冢を作る)であって、「作二大冢一」(大いなる冢を作る)ではない。つまり、「大いに」という形容詞は「作る」という動詞に対する副詞的修飾語であって、「冢」に対する形容詞的修飾語ではない。
だから、陳寿が「大」という表現を与えているのは、国家と民衆が寄りつどうて卑弥呼の墓を作った儀礼・労働全体の動きに対してである。当の墓はそのものに対しては、陳寿自身はけっして「大きな冢」という表記を与えていないのである。
ここでは、近畿にある巨大古墳に惑わされて「大いに」を理解してはならないということと、「大作冢」(大いに冢を作る)は、「大きな冢」ではなく、大いに造墓に励んで冢を作ったという意味であると指摘されていると思います。
いずれにしても、「大作冢」(大いに冢を作る)の解釈の問題になります。
確かに「大作冢」の文法は、古田氏の指摘されるとおりで、多大な労力を要したということでしょう。ただし、この「大作冢」の記事は、中国正史の中で、『三国志』の本文に記された唯一の記事ですから、たいへん注目すべき特別な記事です。
大いに労働に励んで卑彌呼の冢を作れば、それはやはり大きいサイズになるのではないでしょうか。つまり、 「大作冢」の記事の意図は卑彌呼の冢を作るのに多くの労力を使い、ことさら大きい塚となったために記されたと推測します。
8 「大いに」の続き
「大作冢」の記事は、『三國志』の本文ではありませんが、次のとおり挟註に1か所のみありますので、参考のために書かれている内容を検討します。
會夫人死,晧哀愍思念,葬于苑中,大作冢,使工匠刻柏作木人,内冢中以為兵衞,以金銀珍玩之物送葬,不可稱計。已葬之後,晧治喪於内,半年不出。國人見葬太奢麗,皆謂晧已死,所葬者是也。
(中華書局版『三國志』呉書、妃嬪傳、1202頁の挟註)
夫人の死に合い、孫皓は哀愍(れんびん)思念し苑中に葬り大いに冢を作った。工匠を使い柏を刻み木人を作って冢の中に内し兵衛と為す。計りしれないほどの金銀珍宝を以て葬送す。葬儀の後、孫皓は、冢の内にて喪し半年出ず。国の人、葬儀の太く奢麗を見て、皆、孫皓は既に死すと謂いて、葬する所は是なり。
孫晧(そんこう、三国時代の呉の第4代皇帝)は、殺害してしまった夫人を後になって懐かしく思い、その姉を強引に左夫人(第2夫人)としました。孫晧は、その夫人を溺愛したといいます。
彼女が死ぬと、孫晧は嘆き悲しみ大いに冢を作り、莫大な金銀宝物と共に埋葬しました。その葬儀があまりにも豪奢だったので、人々は孫晧本人の葬儀と勘違いしたということです。
したがって、ここで使われている「大作冢」は、古田説の大きな労力を使って冢を作ると理解するのが適切です。結果として、その冢は大きな冢であると私は考えます。
というのも、その冢の中には木で作った衛兵を納め、さらには皇帝が半年もの間、隠(こも)ることができるほどのものとされますので、高さも含めて、それ相応の大きさがあったと推測されます。
現在想定されている中国の皇帝の墓、たとえば、呉の第3代皇帝孫休の墓と目される安徽省鞍山市当涂県の墳墓は44×30mほどの大きさであり、また、魏の武帝、曹操の墓と目されている中国河南省安陽市安陽県西高穴村の墳墓が最大長60mとされます。
しかし、これらの墳墓は「大作冢」とも「大冢」や「大墳」とも記されていません。孫晧の夫人の場合、「大作冢」と記されたのは、これらの墳墓よりは大きかったからだと考えられます。
また、卑彌呼の冢は、孫晧の夫人の冢が大きさを示されていないのに対して、わざわざ「径百余歩」と冢の大きさを記していますので、具体的にその規模が大きいことを示したかったから特筆されたのではないかと考えられます。
ネット上で、この古墳を最初に公開された石田さんの詳細な説明をお読み頂いたならば、卑弥呼の墓説が疑わしい事がお分かり頂けたのではないでしょうか。
2018年4月15日現在のネット・ワークです
本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。
この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。
人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。
なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。
ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量1100~1200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件の大目に見れば3000万件のアクセスはあるでしょう。