563 七山村に宗五霊廟があるのは何故か? “佐賀県唐津市七山村馬川の馬川神社”
20180103
太宰府地名研究会 古川 清久
多くの神社を見て廻っていると時として非常に驚かされるものに遭遇する事があります。
それが、旧七山村(現佐賀県唐津市)の通称宗吾郎神社です。
まず、これを宗吾郎神社と呼ぶべきかどうかも疑問なのですが、つい最近も隣接する三つ鳥居が印象的な神社をご紹介しました。この神社は馬川神社とも呼ばれているのですがそれは馬川地区にあるからであって、この神社の奥にあるのが明治期に造られた宗吾霊(廟)を以て宗吾郎神社と呼ばれているようでもあるのです。
一応は、ひぼろぎ逍遥のバック・ナンバーを見て頂ければお分かり頂けるでしょうが、今回はこの「宗吾霊」廟を考える事にします。
542 | 旧七山村の三つの鳥居は殷の鳥居ではないのか? ”佐賀県唐津市七山馬川神社” |
さて、宗吾郎とはご存じの通り千葉県佐倉市の佐倉宗五郎こと木内宗吾の事です。
何分関東のことからご存じでない方もおられるかも知れません。
佐倉惣吾郎の怨霊を福沢諭吉が祀れと言った話までもあるのですが、下総200ケ村の百姓一揆の首謀者として死ぬ事となった義民中の義民であり英雄とも言うべき人物なのです。
しかし、自分自身も薄汚い権力者への怒りを抑えられないことから、この手の水戸黄門に登場するような悪代官だか家老だかに過剰反応しているのかも知れません。
佐倉惣五郎
佐倉 惣五郎(さくら そうごろう、生年不詳 – 承応2年8月3日(1653年9月24日)?)は、江戸時代前期の下総国佐倉
藩領の義民として知られる人物。下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎(きうち そうごろう)、通称は宗吾(そうご。惣吾とも)とされる。
領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。
ウィキペディア(20180104 21:14)による
では、宗吾霊廟堂をご覧ください。
始めは寺なのか神社なのかを迷いましたが、列島の民族とは祖霊(先祖霊)を神として崇めます。
偉人とか武人である英雄も神として崇めますので、江戸初期の人物としても神として崇められたはずで、思い入れによっては神にも等しい扱いになる事を示す好例とは言えそうです。
この霊堂が明治期に造られている事から、明治政府が幕藩体制を過剰に悪く宣伝する要素も加えられているとは思うのですが、この地に造られた背景については同地が肥前と言っても実質天領であった唐津藩であった事、山を隔てて背中合わせの現小城市が千葉氏のエリアであった事も関係しているのでしょう。
何故ならば、肥前でも唐津藩以外の領域では見掛けた事が無いからです。
天領であれば水戸学も奨励されているはずですし、その影響を受けた人が居たことは考えられるかも知れません。
しかし、宗吾の悲劇性は語り尽くせません。結局、一族は皆殺しになるのです。
佐倉惣五郎(さくらそうごろう)は、江戸時代前期の下総国印旛郡公津村(現千葉県成田市台方)の名主。義人と呼ばれる人であります。姓は木内氏、俗称宗吾。堀田領内佐倉城下に生まれ、本名を木内惣五郎と云う。
農民たちが飢饉に喘(あえ)いでいた。藩主堀田氏の苛政、年貢取立ての厳しさは年年増し、惣五郎は、藩や江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられなかった。「一揆しかない!」と農民たちが思い詰める中、将軍徳川家綱への直訴を思い立つ。
しかし将軍家への直訴は死罪であります。其の為、妻おさんに離縁を促したが、おさんは離縁状を燃やし、4人の子供たちだけ離縁させた。一家全員を死罪から逃れる為であります。
承応元年(1652年)12月20日、惣五郎は、上野寛永寺に参詣する四代将軍徳川家綱に直訴した。かいあって家綱は、佐倉藩への3年の年貢減免を決定してくれる。佐倉藩領民は危機を脱したのである。しかし、恥をかかされた領主堀田正信が宗五郎を許す訳が無い。宗五郎を捕らえ、拷問し、宗五郎の目前で、妻おせんと4人の子供を斬首。宗五郎は磔にかけられたまま憤死した。
しかし。其の後、夜中に磔のまま宙を舞う宗五郎の怨霊が目撃されるようになった。
領民を悪政で苦しめた佐倉藩役人たちが次々と怪死を遂げ、40日で全員死亡。堀田正信も血塗れの宗五郎を視て乱心。狂った正信は側近、腰元を次々と惨殺する。正信の妻も病に倒れ、正信自身は錯乱死。堀田家は改易(かいえき~更迭-クビ)となった。領民たちは宗五郎のための霊堂を建て、義人の霊を手厚く奉った。現千葉県成田市の東勝寺が其れであります。
宗五霊堂(東勝寺)による
さて、この霊堂が何故この地にあるのかについては他に類例がないだけに尚も悩みました。
神社の分布と言い地名と言い領主の姓と言い、限られたピースながら気になる事があります。
一つは、鎌倉期以来九州に入って来た千葉氏です。この桓武平氏の流れを汲む武士団は本拠地が千葉であったことから千葉氏(千葉県でも)と称していたのです。佐賀県では小城市に拠点を置き後に東千葉氏と西千葉氏に分裂し力を落しますが、この千葉氏が居た小城市は山を越えれば七山村に近接しており、このエリアからの働き掛けがあったのではないかとも思ってしまいます。
もう一つは、この七山村の実質全神社調査を終えた事から感じたことは、この地の神社のほとんど全てが天御中主命=白山姫系~大幡主系~豊玉彦=ヤタガラス系=白族系である事に気付いており、どう考えてもこの地に住み着いた人々とは大幡主(ヤタガラスの父神)系氏族である事が見えて来たのです。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
つまり、この赤枠内にある神々を祀る人々が七山村の人々なのです。
もしかしたら、この神々の後裔である七山の人々の子孫が移り住んだ場所が千葉県であり、特に印旛沼周辺だったのではないかと思いついた時、多少の付合を見出したのでご紹介しておくことにします。
そうです、天御中主命=白山姫神社=北辰宮=妙見宮を奉斎するのが、千葉県佐倉、印旛沼を中心とする千葉氏だったのです。
では、中近世の武士団については殆ど知識を持たないため、いつも利用させて頂いている武家の家紋の由来、家紋拾い話から引用させて頂きます。
である。
十分にお分かり頂けたと思います。
濃厚な妙見=北辰信仰のある七山村には以前から千葉の佐倉、印旛沼周辺を本願地とする千葉氏と連動する、従って、儀民佐倉惣五郎の事を十分に知った人々が住み着いていた事が分かるのです。
とすると、印旛沼の「印」も忌部の「忌」であり、市杵島姫=瀛ツ島姫の「瀛」であり、北辰一刀流の千葉周作も妙見信仰=北辰信仰であり、周作の周も中国№1周王朝の「周」であり、北斗の拳の北斗も妙見信仰となるのです。
九州千葉氏元寇の際、九州の防衛(異国警固番役)のため下総国より九州に派遣され肥前国に土着した千葉宗胤を祖とし、肥前千葉氏ともいう。宗胤が下総不在の間に弟胤宗に千葉氏宗家の家督を横領され、宗胤の子の胤貞は北朝方の足利尊氏に付き、宮方に付いた胤宗の子の貞胤と家督を争ったものの、貞胤が降伏した直後に自身が病没したため、宗家復帰はならなかった。胤貞の領地の肥前国小城郡、下総国千田荘・八幡荘は胤貞の次男の胤平から三男胤継に継承され、その後肥前国小城郡については猶子(宗胤の次男)の胤泰が継承した。
室町時代に全盛期をむかえた。このころ日本を訪れた李氏朝鮮の使臣・申淑舟の著書『海東諸国記』にも肥前国最大の勢力として千葉氏の名を挙げている。戦国時代初期に東西両家に分裂し、少弐氏の介入を受けその養子を当主として受け入れることを余儀なくされるほど衰退した。少弐氏が滅亡した際、東千葉家当主千葉胤頼は実兄少弐冬尚とともに自刃し、残った西千葉家は龍造寺氏に仕え、その部将として活動した。龍造寺隆信死後は、龍造寺家の実権を握った鍋島直茂が一時期、西千葉家の千葉胤連の養子だった縁もあり重用され、江戸時代には鍋島姓を与えられて、佐賀藩に家老として仕えた。 ウィキペディア(20180105 10:28)による
福岡県の二丈町~佐賀県唐津市の七山村は白族系北辰信仰の神社ばかりであり白族の国だったのです。
赤胴鈴之助も千葉道場の門下だったのです…従って彼も妙見信仰を持つ白族だったことになるのです