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566 田川市の鏡山神社もカカの山だったのか?“故)吉野裕子(民俗学者)による「カガミ山」=蛇山

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566 田川市の鏡山神社もカカの山だったのか?“故)吉野裕子(民俗学者)による「カガミ山」=蛇山説

20180113

太宰府地名研究会 古川 清久


この間、何度か民俗学者の故)吉野裕子による「カガミ山」=蛇山説の事例を取り上げてきました。


ひぼろぎ逍遥

257

日田市の「加々鶴」地名について “「カカ」を「蛇」と

する民俗学者吉野裕子説から”

392

佐賀県唐津市の鏡山はカカ(蛇)を見る山だった

539

鏡神社は 何故 鏡神社なのか?"佐賀県佐賀市三瀬村の鏡神社"

561

佐賀県にもう一つの鏡山を発見した “故)吉野裕子

(民俗学者)による「カガミ山」=蛇山説


お読みでない方はこれらをお読み頂きたいのですが、2018年の1612日に掛けて大雪を覚悟した但馬の神社調査に行ってきました。

九州島に戻った後の帰りは、行橋~田川~飯塚~小郡を経由し久留米に向かう事にしました。

過去何度となく通った道ですから、仲哀トンネルを貫け田川に入って来ると右手に香春岳が見えその手前に鏡山神社があり、多くはありませんが何度か参拝させて頂いてもいます。

ただ、この神社が何故鏡山神社と呼ばれているかについては、“仲哀トンネル(峠)や神功皇后による鏡の奉納といった話があり、そうかも知れないなあ…”などとあまり深く考えもせず判断を保留してきました。しかし、どうやらそうではない事に気付いたのでした。

冒頭に書いた通り、民俗学者の吉野裕子(故人)は、蛇は「カカ」であり、一本足の案山子も「カカ」の「シ」「シト」(ツヌガノアラシトも「シト」ですね…)「カカノシ」(カカノ氏)であり、正月のお鏡餅も縁起の良い(餅を好む稲作農耕民にとっては穀物を食い荒らす鼠や虫や鳥を退治してくれる蛇を豊穣のシンボルとした)トグロを巻いた蛇の姿を模したものであるとしました。

神社研究として一旦は、神功皇后に準えた説話を受入れたのですが、ここでも吉野裕子説の方がより説得力がある事に気付き、今回、鏡山=カカ+巳山説としたいと思います。


仲哀天皇の御代、天皇は神功皇后と共に熊襲を御征伐になられたが、やがて陣中に崩ぜられた。皇后は熊襲の叛服常なきは新羅の後援によるものとて、御親ら男装し舟師をひきい新羅に向はせられた。その途路、此の岡に天神地祇を祭り、必勝を祈願し御魂代として御鏡を鎮め給ひ崇め給いしが、御社の草創と伝えられるが、祭神は神功皇后を主神に仲哀天皇及び応神天皇(西暦二七〇年)を併祀せられたる神社にして御鎭座より此の方一千七百余年を閲する御宮居である。

神主は鶴賀氏が兼務であり、氏に、より深い由緒を確認したのだが、伝わっていないとの事であった。また現人神社の祭神の都怒我阿羅斯等からのツルガではと問いかけたが、付会であろうとの事であった。なお香春神社の隣の家も鶴賀氏で、神主さんのようだ。


566-1

鏡山神社 カーナビ検索 田川郡香春町大字鏡山字南原705


豊前国風土記逸文

田河の郡。鏡山。昔、気長足姫尊(神功皇后)がこの山にいらせられて、はるかに国状をご覧になり、祈って申されるには、「天神も地祇も、私の(新羅征伐の)ために幸福を与え給え」と。そして御鏡をもってここに安置した。その鏡は化して石となり、現に山の中にある。それで名づけて鏡山という。(『万葉集注釈』三)         敬愛する「神奈備」による  まさか、鏡とは御鏡餅ではないでしょうね。


566-2

これを見るとどう見ても山が御神体にしか見えないのですが


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写真が見つからないので「ひもろぎ逍遥」様から借用しました


まずは「福岡県神社誌」中巻210pを見ることにします。


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神功皇后と仲哀を祀る神社である事は説明がいらないほどですが、それは1700年前から始まった事であって、それ以前は別の祭祀が存在していたのではないかと考えるに至りました。

それは、以前のフィールド・ワークから、この一帯にはツヌガノアラシトこと神武僭称 贈)崇神を奉斎する現人神社が数社存在する事を確認していた事もあり、最終的には金も採れた採銅所を握った人々がこの勢力であった事が見えたからでした。

それ故に鏡山神社とは、現在境内社とされている稲荷社(保食神=ウケモチ)祭祀だったはずなのです。

それは、採銅所で採れた銅によって造られた(作られたと書くべきかもしれませんが…)鏡が宇佐神宮に納められる関係にあり(採銅所の古宮八幡宮)、今回、この勢力が、贈)崇神の権威を高めるためにも神功皇后+仲哀祭祀を生じさせたのではないかが見えてきたのでした。応神の背後にいたのは崇神なのです。

まず、採銅所の正面には辛國息長大姫大目命神社を主神として祀る式内社の香春岳神社があります。

私達百嶋神社考古学の者にはこの辛國息長大姫大目命が伊勢の外宮の豊受大神であり伏見稲荷でありニギハヤヒ(山幸彦=猿田彦)のお妃であり、当然、=天鈿女命(アメノウヅメ)=保食神(ウケモチノカミ)であることが分かっています。

一方、この贈)崇神が海幸彦の孫である事は何度も申し上げて来たのですが、ここにはニギハヤヒ(山幸彦)系物部氏主流派と海幸系の対立が見えるのです。

それが、この鏡山神社祭祀の背景に存在する事が見えて来ると、この神社が鏡の奉納といった事から鏡山神社と呼ばれている訳ではない事に五年も掛かってようやく気付いたのでした。


566-5


 と…、すると、何故、鏡山神社と呼ばれているかについては、改めて民俗学者の吉野裕子に立ち返る必要がある事に気付くのでした。


566-6

大雪の但馬の神社調査遠征から戻ってきて、行橋から大雪の田川盆地へと入り渋滞する中で、この鏡山神社とこの一帯が「鏡ケ池」と呼ばれている事に気付き(勿論知ってはいても意識していない以上パス・スルーしているのであり、「ゲシュタルト」心理学の見ていても見えていないのと同義なのです)、鏡を奉納したから鏡山神社と呼ばれているのではなく、鏡山と呼ばれていたから鏡山神社と呼ばれているのであり、普通に考えても鏡が奉納されたからと言って池まで「鏡ケ池」とは呼ばれるはずもないのであり、鏡山を島として浮かす池であったからこそ「鏡ケ池」と呼ばれたのである事が見えて来たのでした。

この位置からはお鏡餅状の山に見えますが、再度、始めの方に掲げた地図と俯瞰画像をご覧ください。

日田英彦山線がこの地(採銅所~香春)で大きく蛇行している事にお気付きになると思います。

これは古代遠賀湾、遠賀湖といったものの名残とも言うべき湿地を避けて(安全な回転半径を取る事は元よりですが、鉄路は安全な傾斜を維持するため地盤沈下を嫌いますので)、最低でも汀線の縁を通過するものなのであり、その内側が古代の池であった事も見えて来るのです。


再掲



もう亡くなられて久しいのですが、吉野裕子という民俗学者がおられました。

 その著書の一つに非常に知られた「蛇」があります。

 この論旨を我流に要約すれば、案山子(カカシ)とは田んぼの収穫を荒らすネズミや雀を追い払う蛇を擬製したものであり、「カカシ」の「カカ」が蛇の古語で「シ」は人を意味している。

 それの説明として、正月の「鏡餅」の「カガミ」も「カカ」+「ミ」(巳)であり、蛇がトグロを巻いているものを豊穣のシンボルとし、感謝を表したもの…となり、蛇の一種として「ヤマカガシ」があることも蛇が「カカ」と呼ばれていた痕跡となるのです。以下、ネット上から参考…


566-7

日本原始の祭りは、蛇神と、これを祀る女性(蛇巫=へびふ)を中心に展開する。
1.女性蛇巫(へびふ)が神蛇と交わること
蛇に見立てられた円錐形の山の神、または蛇の形に似た樹木、蒲葵(ピロウ=ヤシ科の常緑高木)、石柱などの代用神や代用物と交合の擬(もど)きをすること。今も沖縄および南の島々に、祭祀形態として残る
2.神蛇を生むこと
蛇を捕らえてくること
3.蛇を捕らえ、飼養し、祀ること
縄文土器にはたくさんの蛇の文様が登場する。縄文人の蛇に寄せる思いは、次の2点である。これらの相乗効果をもって、蛇を祖先神にまで崇(あが)めていった。
1.その形態が男性のシンボルを連想させること
2.毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃で倒す強さ
埴輪の巫女が身につけている連続三角紋、装飾古墳の壁に描かれる連続三角紋・同心円・渦巻紋も、蛇の象徴であると推測される。
稲作の発達につれて弥生人を苦しめたのは、山野に跳梁(ちょうりょう)する野ネズミだった。ネズミの天敵は蛇である。弥生人は、ネズミをとる蛇を「田を守る神」として信仰したと思われる。
日本人は、蛇がトグロを巻いているところを円錐形の山として捉えてきた。それが円錐形の山に対する信仰につながる。三輪山はその名称がすでに神蛇のトグロの輪を意味し、神輪(みわ)山の意がこめられている。


日本の蛇信仰(吉野裕子著) - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」
より



お分かり頂けたでしょうか? 以上、再掲。

 さて、今回は唐津市の鏡山の意味です。

福岡市周辺の方が西に向かうと必ずこの山の下を通られるので鏡山については良くご存じだと思います。

一般的には「鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている」とか、酷い話では観光バスのガイドが言うような「鏡山は屈んでいるから低く見えるが、立ち上がったら本当は高い山なんだ…」といった話までが横行しています。


鏡山(かがみやま)は、佐賀県唐津市にある山である。標高284メートル。

鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている。また、松浦佐用姫(まつらさよひめ)が山頂から大伴狭手彦の船を見送ったという伝説の地であり、佐用姫がそでにつけていた領巾(ひれ)を振りながら見送ったということから、領巾振山(ひれふりやま)の別名でも呼ばれる。

頂上には鏡山神社がある他、愛する人との別れで泣き続け石になった佐用姫の悲恋伝説にちなみ、恋人たちのパワースポットとして佐用姫神社が祀られている。

また、鏡山ができたとき、上を切り取って海に置いたのが高島、その上を切り取ったのが鳥島という言い伝えがある。鏡山と高島はともに台形であり、見た感じの大きさも丁度よいものである。同様に、巨人が鏡山に躓いて転んだため怒り、頂上部を殴り飛ばしたことで高島などが出来たという。


一例ですが、HP風水パワースポット検索 から


566-8

神奈備氏が“神主は鶴賀氏が兼務であり、氏に、より深い由緒を確認したのだが、伝わっていないとの事であった。また現人神社の祭神の都怒我阿羅斯等からのツルガではと問いかけたが、付会であろうとの事であった。なお香春神社の隣の家も鶴賀氏で、神主さんのようだ。”と書かれている事は先に引用している通りですが、長い階段参道を歩かれれば直ぐに分かるとおり、香春神社の氏子には他にも多くの鶴賀さんがおられます。

やはり、これは付合ではなく古代の政争の結果が反映されているのです。

繰り返しますが、辛國息長大姫大目命とは伊勢の外宮の豊受大神であり伏見稲荷でありニギハヤヒ(山幸彦=猿田彦)のお妃であり=天鈿女命(アメノウヅメ)=保食神(ウケモチノカミ)なのです。

鶴賀さんが敦賀さんであり、ツヌガノアラシト(草部吉見=ヒコヤイミミの孫)=現人神(アラヒトガミ)、氣比神宮の後裔であろうことは十分に想像できるでしょう(これは血統が継承されていなくともその氏族の利益を継承する家系であっただろう事を示しているのです)。

要するに、ここでは山幸系が海幸系に排除され、採銅所という重要な拠点が支配されているのです。



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