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219  膳所(ゼゼ)“嘉麻市のぜぜ野と近江の膳所焼”

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219  膳所(ゼゼ)“嘉麻市のぜぜ野と近江の膳所焼”

20150618

久留米地名研究会 古川 清久




219-1

十年ほど前に琵琶湖の東南岸、東海道の「膳所(ゼゼ)焼」の窯元を訪ねた事がありました。

その時は、「膳所焼」とは奇妙な名称だな…程度の理解でした。

その後、「西日本古代紀行」神功皇后(河村哲夫)を読み、嘉麻市宮吉に「ぜぜ野」という地名がある(あった)事を知りました。今、日田市天瀬町にある久留米地名研究会天ケ瀬温泉五馬高原研修所から筑豊、豊前に頻繁に行き来するようになり、この宮吉を毎回通過するようになってきたのです。

豊後(日田)から筑豊(飯塚、田川)に移動する場合や田川郡から嘉麻郡へと移動する場合にも最短のルートが旧山田市(現嘉麻市山田町)の熊ケ畑辺りを抜け宮吉に抜けるルートで最も便利なルートなのです(古代においてもそうだったのでしょう)。

また、日田市内にも膳所医院とか大分市内にも膳所病院を発見し、膳所という地名、従って人名の震源地がこの一帯にありそうだという確信を抱くようになりました。

全国でも19件と非常に珍しい姓ですが、どう考えても震源地は福岡県から大分県に掛けてであり、こちらから東に移動した「姓名」であり地名、もしくはブランド銘のように思えます。

膳所焼(ぜぜやき)は、滋賀県 大津市 膳所にて焼かれる陶器 。茶陶として名高く、遠州七窯 の一つに数えられる。黒味を帯びた鉄釉が特色で、素朴でありながら繊細な意匠は遠州が掲げた「きれいさび」の精神が息づいている。


元和 7年(1621年 )膳所藩 主となった菅沼定芳 が、御用窯として始めたものを膳所焼(御庭焼)と言う[1] 。また、膳所藩領国内で安土桃山時代 から江戸時代 初期に焼かれた大江焼(瀬田大江(現大津市瀬田)の陶器、1620年 代には築窯されていたとされる。)・勢多焼・国分焼(石山)の3古窯と、膳所焼復興を目指した梅林焼・雀ケ谷焼・瀬田焼の総称としても用いられている。

ウィキペディア(20150618 10:00)による

実際、今日も、研修所から日田市内を抜け、日田彦山線の筑前夜明駅辺りから旧宝珠山村、旧小石原村と峠を越え、馬見山の東を嘉麻市の宮吉から田川市、香春町の南の川崎町へと移動するのですが、この「ぜぜ野」と東海道の「膳所焼」の話をしてみたいと思います。

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以下は、現在書くのを中止しているHPアンビエンテ内に組込んだ「有明臨海日記」というエッセー集に出した小稿を2012716日に編集を加えてしていたものです。

 全ての発想は、膳所(ゼゼ゙)焼の窯元を訪れたことが始りでした。


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琵琶湖の畔、滋賀県の大津周辺を散策した事がありますが、その折、旧東海道沿いにある膳所(ゼゼ)焼の窯元を訪れたことがあります。

膳所焼の起源は古く、近江京の時代まで遡るのではないかとも言われていますが、窯元の若主人から聞いた「九州の高取焼きと似ている」という話が耳に残り消えません。

九州に帰る途中もこの話が気になっていたことを思い出します。

最近は架空の話だったと思うようになりましたが、滋賀県から福井県は、磐井の乱(実は継体の乱)の継体の拠点と考えられており、後の壬申の乱や近江朝の舞台になった土地でもあります。

近江散歩で書いた、石山寺や三井寺もこれらに関係するものだけに、興味は尽きません。そこで、「九州の高取焼と似ている」といった話を聞くと過剰反応してしまいます。

有明海沿岸の神功皇后伝承といったものを調べ始めていますが、「西日本古代紀行」神功皇后(河村哲夫)を読んでいると、ぜぜが出てきました。全文は掲載しませんが、一部をご紹介します。

 

   なおも遠賀川の上流へ上がっていくと、宮吉ミヤヨシ(嘉穂町)に出る。神功皇后がこの地を通過したとき、皇子の応神天皇がむずがって泣きやまなかった。それを見た農夫が柳の枝に団子をさして皇子に献上した。このため、この地を「ぜぜ野」と呼んだという。「ぜぜ」とは、この地方の古い言葉で、子供が駄々をこねるという意味である。

 宮吉には、応神天皇・神功皇后・玉依姫を祭神とする宮吉八幡宮があるが、別名「ぜぜ八幡宮」とも呼ばれたという。祭日には、村人たちが社殿の後で柳の枝に団子をさして食べるならわしがあった。

この地(福岡県嘉穂郡嘉穂町)を流れる遠賀川をニ十数キロも下れば直方市であり、そこにあるのが高取焼なのです。

九州王朝論というものがありますが、白村江の敗北以降の九州王朝による近江遷都、壬申の乱は有明海沿岸が舞台といった事が議論されています。磐井の乱(実は継体の乱)の際の継体軍の侵入コースが北九州から遠賀川を溯上するものだったと考えられていることから、その際に、戦利品として陶工が拉致されたとか、九州王朝の近江遷都の際に移住させられたといった可能性もあるのではないかと想像の冒険を重ねています。

以前書いたのはここまででしたが、旧宝珠山村から旧小石原村に掛けては宝珠焼、小石原焼、山を越えた日田の山奥には小鹿田(オンタ)焼…と並んでいます。

そして、筑前側の旧宝珠山村には高取焼宗家と称する窯元までがあるのです(写真)。


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宝珠焼窯元

 確かに「ぜぜる」は筑豊の言葉の様です。肥前在住者だった私でも多少理解できますし、長野県の方言でも、「ぞーぜる」は子供が甘える事を言うそうです。

 勿論、百嶋神社考古学の立場からは、応神天皇が神功皇后の子であるなどとは露ほども考えてはいませんが、北部九州に山ほどの足跡を残す神功皇后伝承があることから、豊前、筑豊、豊後、筑前、筑後と移動していた事だけは間違いがないことでしょう。

 してみると、陶器に関しては全く知識を持ちませんが、古代からこの馬見山、彦山一帯において、高取焼という高貴なブランドを持つ皇室御用達のような窯元があり、それが九州王朝の一分派が移動したのに伴い、近江周辺に移動したとすることはあながちおかしな想定でもない様に思うのです。

 そもそも、琵琶湖の傍の三井寺(近江八景)にしても筑後の高良山の麓の御井の地名移動なのです。

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宮吉地区遠景

 膳所焼、高取焼、ぜぜ野、膳所姓、宝珠焼、高取焼宗家窯元と無理やり繋げた想像の冒険でしたが、他に有力な説がないならば、大手を振って薄い仮説を提出しておきたいと思います。

 玄海地名研究会に参加された方にも高取焼の窯元の方がおられましたので、何れ訪問し膳所焼との関係についてご教授願いたいと思っているところです。

 今後とも要望に答え、「ひぼろぎ逍遥」の方は、地名、民俗学、社会学…に関するものを連載して行きます。「ひぼろぎ逍遥」をお読みの方で、より神社考古学にシフトしたものをお読みになりたい方は、神様専門blog「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院をお勧めします。


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