221 地名研究会研修所周辺の風景から “隣の塚田地区に観るある習俗”
20150621
久留米地名研究会 古川 清久
始めに4枚の写真を見て頂きますが、多分“一体、何を言おうとしているんだろう”と思われることでしょう。
何の変哲もない木材、竹竿に細長い屋根が掛けられているだけのものに見えると思います。
その通りなのですが、もちろん和風の農家での話しですが、一般的には床下に入れられていたり、家の脇や裏側の下屋に置かれるものなのです。
これが、自宅からかなり離れた耕作地や通作路や排水路の脇などに平然と置かれているのです。
「こんなものはどこにだってあるだろう…」と言われればその通りです。
何も気に留めないでただ見ている場合は分からないのですが、意識して観ていればけっこう多く見掛けるものです。
しかし、だからといって問題にする価値も無いものだ…とは言えないのです。
それは、この習俗が平均してどの地域でも一定の割合で認められるものならば、個人的な好みの問題、その家の事情済まされるのですが、どうもそうとは言えない様なのです。
この習俗をかなりはっきりと意識するようになったのは、もう二十年も前でしたが、頻繁に山陰地方を走っていると海岸部に近い農地や神社境内地などで良く見掛けました。
元々、三十年近く頻繁に魚釣りで九州各地の島嶼部を走り回っていた事から経験的に言える事であり、元より、学術的な統計資料があるはずも無く、単なる民俗学徒の蓄積された経験による観察以上のものではありません。
これは、恐らくこのような関心を持って観続けた人でなければ同意してもらえない概念、観点であり、理解してもらえないと思いながら書いていますが、経験的にはそうとしか思えないことなのです。
もちろん、それほど珍しいものでもなく、九州各地でもかなり見掛けるものです。
ただ、久留米地名研究会の研修所があるのは五馬市地区ですが、一キロ南にあるのが塚田地区で、そのまた南一キロにあるのが出口地区です。
この観点から言えば、五馬市地区と出口地区にはこの習俗はなく、三地区の中では塚田地区だけに認められるのです。
これが、恐らく古い時代に持ち込まれた海人族によるものではないかという根拠は、どう考えてもここは海人族の集落だなと思えるところで色濃く認められるものである事からそう判断しているものであり、それ以上のものではありません。
まあ、分かって頂けなくても構わないと思って書いていますので、そうであっても一向に悲しくはないのですが、このような小さな、と、言うか、微妙な変化や差異を判別できる事が文化なのです。
良く「海外に行くと日本の習俗が海外と如何に異なっているかが分かり、海外を知る事は重要だ…」といったステロ・タイプの話をされる方がおられますが、それはそれで正しいとしても、そのような海外とのといった大きな差異を理解できることではなく、すぐ隣の集落との違いといった微妙かつ微細な変化を分別できる事こそが、実は民俗学が追求するものであり、それを文化的な事だと一人悦に入っている訳です。
では、何故、海人族にこのような習俗が生じたのかが次の疑問です。
元々、工具や運搬手段が普及していなかった時代においては、竹はともかくとして、加工された木材と言うものはそれ自体が非常に価値の高いものであり、管理しやすいと言うより安全な自宅の傍に置くのが普通だったと思うのです。
ところが、それを平然と耕作地の脇などに置いているのは何故でしょうか?
まず、木切りは海人族という定式を考えています。
海人といえども最初から舟を持っていたはずはなく、運び出しやすい川筋の山に入り大木を切り倒し海や湖まで転がしたり、引っ張ったり、流したりして、加工しやすい場所まで運び舟を造ったことでしょう。
もちろん、小さな舟ならば、その場で刳り貫き半加工、半完成の状態で持ち出したはずです。
つまり、海人族とは筏を組み、川流しを行い、舟を造り、人員物資を運び、漁労も行った人々なのです。
当然にも、後に、彼らの一部は後に船大工、家大工、作治方、家具製造者…に転進したはずです。
専門的な技術を持った彼らは一般の農業者とは異なり、本業を離れて農業者として隷落したとしても、多少の木材を操る技術は持っていたはずで、木材を大切に扱い利用出来る術を持っていたはずなのです。
もちろん、木材は雨ざらし日ざらしにすれば傷みますし、脆くなります。
それ以上に、かつて彼らのご先祖様達が崇めた帆柱に対する思い入れの記憶が後を引いているとまで考えるのは無論思考の暴走かも知れません。
しかし、良く考えれば、夜明ダムが造られる昭和28年まで、旧大山町、旧天瀬町、旧日田市には多くの川流しの人々が住んでいました。現在もその末裔の方はおられる事でしょう。
恐らく太宰府国衙、政庁、都督府への木材は日田周辺の安楽寺領から切り出され送り込まれ続けていたはずなのです。
信州の安曇野、近江の旧安曇川町に大量の海人族、海士族が移住していた事は有名です。
ましてや川流しの伝統がほんの六十年前まで残っていたこの地に海人族の痕跡を辿る事はそれほど荒唐無稽な話でもないのです。
そもそも、ここは日田市天瀬町です。天瀬とは海人族、海士族の地なのです。
最低でも、この習俗を発見すると、ここには海人族が入っていた名残ではないかと考える事にしています。この手の習俗に墓の墓誌の有無…といったものもあるのですが、何れお話しましょう。
最後に、地名研究会のお抱え出版社とも言える不知火(シラヌイ)書房にも筑後川の川流しに関する良書、好著がありますのでご紹介しておきます。
お読みになりたい方は、直接、不知火書房(092-781-6962)に電話をお掛けになれば、直ぐに郵送されます。