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584(前) 高知県の物部川流域にひそりと息づく仁井田神社

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584(前) 高知県の物部川流域にひそりと息づく仁井田神社

20180305

太宰府地名研究会 古川 清久


 今般、高知県香美市の別役神社の祭礼に参加してきた事は前ブログ ひぼろぎ逍遥583 別役神社の祭礼に参加してきました でもご報告しましたが、仁井田神社の存在だけでも知って頂く為に画像を見て頂くことにします。


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当日は春一番通過後の好天に恵まれ、明後日の祭礼の日(33日)まで十分に持ちそうな勢いであり有難い限りです。

584-2

 香美市がどこかまではお示ししませんが、高知市以外にも、土佐市、南国市とどこだろうと思うような行政単位が多い中、香美市などと聴いても遠来の者にはおいそれとは見当が着きません。

 ただ、高知市の東に広がる深い山中をも領域とする物部川の大峡谷流域に展開した物部系氏族が実際には如何なる人々であったのかを探る上での重要な基礎調査とは言えるでしょう。

 まず、旧物部村の中心部である栃尾に入って来ると、右手に非常に印象的な山が見えてきます。

 その名も「天王」であり、それを見るだけでも圧巻ですが、ダムによって水面が上がっているとは言え、ダムが造られる前にはそれこそ大峡谷があったはずで、それを想うだけでも感動を覚えない訳にはいきません。

この天王は天王森とも呼ばれているようです。

地図をご覧頂ければ一目瞭然ですが、四国の南西部を中心(東北の半分は全て山は森と表記されています)に山、岳、嶽に相当するものが森と呼ばれる傾向が顕著です。

これは森が本来は「銛」を意味しているのではないかと考えていますが、村上水軍の「森家」が入った九州のど真ん中の大分県玖珠町にも森地名が拾えるのです。これは只の孤立した一例に過ぎません。

海神ネプチューンの三つ又の鉾も森なのです。


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当然にも平家の落人伝説もあるのですが 物部氏とはそれに先行する事五百年前の落人なのです


物部村に入り、まず、最初に見たいと思ったのはこの仁井田神社でした。

 実は、この周辺には大峡谷を挟んだ対岸にも仁井田神社があるのですが(これは昭文社の道路マップにも出ているのです)、土地の方にお尋ねしても、当方で掛け摺り廻っていくら探して見てもとうとう分かりませんでした(「鎮守の森は今」竹内荘市によれば、仁井田神社は高知県内に47社とあります)。

 いずれにせよ、最初に向かった槇尾の仁井田神社については紛れもない物部氏の奉斎する神社であろうと思いました。

その理由は、「仁位田」が物部氏の中でも筆頭に掲げられた「先代旧事本紀」筆頭の二田(仁井田、新多、新田、仁多、仁田…)物部である事を知っているからです。

最低でも、この二田類型地名を追っていけば物部氏の移動が推定できるほどの痕跡地名であろうと考えています。


584-4

仁井田神社 カーナビ検索 高知県香美市香北町梅久保


584-5


584-6神社には祭神を探る手だてが残されていません。

地名以外には何の手掛かりもないのです。

 さて、これは高知県在住者のB氏から教えて頂いた事ですが、高知の神社資料としては、「鎮守の森は今」追補版「鎮守の森は今」竹内荘市が一般的で、他にもあるものの、県立図書館などに行かなければ手に入らないため、とりあえず、現在でも入手可能なものとしてはこれ以外には無いようです。

 それによると、この仁井田神社については、かなり簡略ですが、以下のように書かれています(58p)。

 

 香美市香北町梅久保

 山末大主神

 勧請年月縁起沿革等未詳。

 古来、当地域の産土神で仁井田大明神と称したが、明治元年3月の達しにより改称した。


記述はこれだけです。

 問題はこの② 山末大主神が誰なのかです。

 私達もこれを追い求めて来たのですが、現在のところ、大山祗命=月読命ではないかと考えています。

 これについては、ひぼろぎ逍遥スポット 069 で以下を書いていますのでお読み頂きたいと思います。

 この仁井田と二田には連続性、関係性が認められ、共に物部系氏族が付す地名であり従って社名でもあるのです。

 以下再掲載

スポット069 月読命(大山祗)の祭祀圏とは何か?      


1218日、太宰府地名研究会(20161218)に於いて、久留米市田主丸町石垣の二田の月読神社から朝倉市杷木町大山の大山祗神社への数社を巡るトレッキングを行います(公開時点では終了しています)。

 問題は、この月読命=大山祗の祭祀圏が何であるのか?が、今回のテーマです。


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「古事記」「日本書紀」でも影が薄く、実体が見えないのが月読命=大山祗命ですが、これが隠されてきた理由が多少は見えて来ました。それは、その実体が狗奴国であり、物部氏であり(主力が二田物部=鞍手郡小竹町新多だった事を想起して下さい)、後に朝敵=熊襲とされたトルコ系匈奴を主力とする騎馬軍団だったからのようなのです。恐らく朝敵熊襲だったことが百済、新羅、高句麗、秦氏からペルシャまでは許されるものの、決して列島進入を認められてこなかった理由だったようなのです。

現在、百嶋神社考古学を追い求める当方の研究者たちの間で、最も関心を寄せているのが、故)百嶋由一郎氏の遺言と言っても良い証言で、それがこれら訪問する神社に関係しています。

神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜

源実朝以降に、朝鮮人である神様を日本の偉い神様にしておくのはまずいということで削ってしまった。削られたお宮さんは困りますね。田主丸のさんや様、おしろい祭りをやっているおおやまつみ神社、あそこは困って祭神すり替えをやっている。すなわち、政府が許すという範囲のことしか表に出してはいけないというお触れに従ってごまかしておられる。ところが、ナニクソ、こんなこと発表して構うもんかと、熊本城ががんばられた。熊本城の本丸の地下にゆくと王照君の間がある。古代中国の4大美人、西施、王照国、貂蝉、楊貴妃ですが、王照君は100%消された朝鮮人ですね。さて、その消された朝鮮人の神様のお子様が、田主丸のサンヤ様、そしてそのお子様が大国主です。

中国4大美人、西施(年齢は2500何十歳)、そして次の方、王昭君、熊本城の大広間に行くと王昭君の絵がでかでかと描いてあります。そしてこの人こそ大国主命の先祖とお考えください。秘密にされておりますけれど、間違いございません。その代表的な裏付けとなるひとつに、朝倉のおしろい祭りがあります。朝倉の大山祇神社、ここでははっきり書いてありますが、ご祭神を王昭和君と書くわけにはいけないから、遠慮して遠慮して、ご祭神はもとは女であった、そしてお化粧が云々と書いてあります。この人の年齢は紀元前33年に嫁がれたそれに20歳プラスなさったらよい。この人の血統も秘密になっていますが大体わかります。いずれ機会があったら、その時話します。次は、貂蝉(ぴゃおちゃん、ちょうぜん)、1800年前曹操が天下を取った時代にずるい賢い連中がこの人を使って、最後にこの人を使い切ったのは曹操です。最後の方は1300年前、楊貴妃(やんくいへ)以上の4人が古代中国4大美人です。 

肥後の翁のblogから一部切出し

まず、十五夜お月様を愛でる風習については、現代人にも良く知られています。

これに対して、田主丸の「さんや様」とは「二十三夜月待ちの風習」(「講」を作り参宮したり、その仲間で御馳走を食しながら月の出を待ち、月が現れるとそれをめで拝んだ)の残る領域と重なるもので、月、当然“うさぎ”などがシンボルになっています。また、同系統のものかどうかは不明ですが、十三夜や二十六夜待ちの風習は非常に薄くなっているようです。さて、「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界」を読まれた方に誤解がないように先手を打っておきますが、ここで朝鮮人と言う場合、現在の朝鮮人をイメージすると全く訳が分からなくなってしまいます。若干のコメントを加えておきますが、古くは呉の太伯王(周王朝の長子)の子孫=“倭人は呉の太伯の裔”を筆頭に、列島には多くの渡来系民族、氏族が雪崩れ込んでいます。百済、新羅、高句麗はご承知の通りですし、秦の始皇帝の支配を嫌い半島に逃げて来ていた秦の臣民、後には漢帝国に滅ぼされる秦(秦氏=嬴…瀛氏)の王族、官僚、武人、技術者…、そして、漢王朝も同様に…(恐らく、綾氏、笠氏…)、鮮卑、恐らく、燕、趙、魏、晋、漢、斉、楚、五胡十六国時代の民族の一部も、繰り返し、繰り返し多くの人々が押し出されてきたのでした。

584-8 従って、現在の半島には古代朝鮮人の中枢部(王族、学者、軍部、技術者)は残っておらず(百済、新羅、高句麗にしても同様)、残ったのは新権力に手のひらを返すように態度を豹変させ、直ぐに強い者、得な側に従う節操のない人々(これが毎日年から年中、嘘を付き続けている現代の中国、朝鮮の民族体質に繋がっていることは半島の大統領弾劾などにも認められる現象ですね)だけで、古代朝鮮は列島にそのまま移ってきていると考えるべきなのです。

つまり、簡単に言えば古代の朝鮮人、中国人こそが列島人であり、現代の半島人とは古代朝鮮人などではなく、新たに生じた(生じ続けた)空白に北方から侵入し続けた濊(わい、拼音: Huì)、鮮卑など、入れ替わった人々のことなのです。つまり、玉突き状態で新世界としての列島に移動した優秀な人々によって形成されたのが列島人だったのです。そこまで、理解して頂いたうえで、この月を愛で、うさぎの狛犬を置く様な民族集団とは何であるのかを考える事が主要なテーマです。

 ただ、非常に多くの説明をする必要があり、今回はその骨格だけをお話しするだけになります。これについては、現在、500シートのパワー・ポイントとして朝来(アサクナ)を作成しています。あくまで途中経過ですが、この問題に近接する内容となっています。

 本題はここからです。二田の月読神社が鎮座する場所は田主丸町石垣ですが(実際には移転により多少変わっていますが)、この地名が遠くアフガニスタンまで通底していると考えています。

そして、「石」(イシ)には思い当たる事があるのです。

 それは、大山祗命を追い求めていると不思議と「石」の付された地名、神社名に出くわすことを何度も経験しているからです。ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂く必要があります(以下)。

179 天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 ④ “西都原に大山祗命の痕跡がある!”

今回ご紹介するのは西都市の石貫神社です。


584-9

カーナビ検索  宮崎県西都市三宅4615ロ 石貫神社




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