584(後) 高知県の物部川流域にひそりと息づく仁井田神社
20180305
太宰府地名研究会 古川 清久
西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。この石貫神社については地元では知られているようですが、北部九州にお住まいの方にもほとんど知られていません。この事には、そもそも「大山祇命」を直接祀る神社が北部九州には少ない事があり、コノハナノサクヤのお父さんといった事以外、馴染みが少なく印象が薄い事があると思うものです。ただ、今回の「天高く、青空に誘われ日向の神社探訪」は、大国主と大山祇命の痕跡を辿ることがテーマですから、日向に幟を揚げた大山祇命のお社を見出したのは有難い限りです。さらに言えば、百嶋神社考古学の立場からは大山祇命(実は月読命)は大国主の父親であり、妹にあたるコノハナノサクヤはニニギと直ぐに別れ、豊玉彦(ヤタガラス)と一緒に古代の日向である溝部町に前玉(サキタマ)神社として祀られ後の埼玉県の地名の起源となった前玉神社になっているとするのです。
由緒
当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命」(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。往時は、社殿、境内、宏壮森厳で、真に筑波御殿の名に背かざるものであった。弘治二年(1556)六月の『古帳神社知行目録』によれば、神田十二町一反歩を有し、応永二十四年(1417)社殿改修に当たり神饌田が加増され、以来応永二十五年、二十六年、二十七年、永享二年(1430)等、幾度に渡り神饌田の増加の記録が現存する。しかし天正十五年(1587)豊臣秀吉、島津出兵の際、羽柴秀長、兵を率いて都於郡に陣営した時、当時の石貫神社の祠官が軍令に従わなかった事によって社地は没収された。
石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。 敬愛するHP「神奈備」より
石貫神社が本物ではないかと考える理由は、この旧溝部町の前玉神社(ニニギと別れたコノハナノサクヤが祀られる)の存在があり、大山祗命の娘であるコノハナノサクヤが、埼玉は本より関東全域で桜姫と呼ばれている起源が、この神社の直ぐ東側を流れる桜川を起源にしているのではないかと考えるからです。
この「石貫」地名は熊本県玉名市(玉名市石貫地区 横穴式石室を持つ古墳で有名)にもあり、故)百嶋先生は同民族の移動による痕跡地名とされていましたが、筑後川左岸(南岸)の久留米市田主丸町石垣地区、佐賀県嬉野市石垣地区など同種の地名があり、大山祗命=月読命の信仰圏でもあるのです。
まず、石貫神社の「石貫」とは、「石ノ城」の置換えで(U音、O音の置換え)、「石城」「石垣」も「石ガ城」の置換えになるのです。佐賀県神埼郡吉野ヶ里町には「石動」(イシナリ)があります。これも半島系の吉野ケ里の「里」地名ですが、金官伽耶から進出してきた同系統の地名と考えています。これこそが、「石和」が「石尊」と通底していると言った理由ですが、これについても故)百嶋由一郎氏は答えを出しておられたのです。
新疆ウイグルは勿論のことアフガニスタンにまで何度も入っておられたようで、このシルクロードの石頭城(タシクルガン)石頭山が「石城」とされ列島まで持ち込まれていると考えておられたのです。
これまでにも何度も申し上げていますが、百嶋神社考古学では大山祗命=月読命はトルコ系匈奴で金官伽耶の金越智(ウマシアイカビヒコヂ)と天御中主の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとします。
さらに話を物部氏に広げます。それも「先代旧事本記」の筆頭に書かれた主力の二田物部との関係に踏み込みます。
新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。
休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。
場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。
物部神社正面
物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2
これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。
物部神社参拝殿、本殿
遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。
ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。
当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。
ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。
ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。
いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。
地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。
しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。
参拝殿から神殿への鞘殿?(左) 古風な尻合わせ三つ葵紋は誰の物か?(右)
立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。
尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。
ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」…に助っ人を頼みたいと思います。以下。
徳川家の三葉葵紋
一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。
徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。…写真:上賀茂神社の紋-二葉葵
葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。………
・家紋:立ち葵紋
敬愛するHP「倭国九州王朝」より
同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。
この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。
新田は○に一文字(一引き)です。
徳川が、新多物部→二田物部→新田氏→徳川氏とすれば、面白いのですが、そのことをお示しするために、百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。
これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、結論を急ぐのは冷静に止めておきましょう。しかし、上賀茂=崇神の系統の可能性は高いのではないでしょうか?
百嶋由一郎「ヤタガラスバリアシオン」神代系譜
「物部」とは職能集団であり、多くの民族(氏族)の複合体ですが、この二田物部がどの系統であるかを考える際に、この神紋から大枠では大幡主系と考える価値はありそうです。