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585 隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)“高知県の長谷寺の十二所大権現とは何か?”

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585 隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)“高知県の長谷寺の十二所大権現とは何か?”

20180308

太宰府地名研究会 古川 清久


ひぼろぎ逍遥 583 別役神社の祭礼に参加してきました に於いて秘密結社的な橘一族の後裔同族集団の祭礼に参加した事はお伝えしましたが、その際、何故か臨済禅の古刹の住職が参加されていました。

神社の祭礼にお寺の…と多少違和感があったのですが、明治期まではそれこそ神仏混交が一般的であった事からその名残とも思えましたし、同族集団は神も仏にも同時に守護されているとする必要があったはずで、古来、毎年欠かさず参加されていたようだったのです(そもそも祭礼地は墓所でもあったのです)。

しかも、別役神社の裏側の山上とは言え、普通の道で廻れば40キロ以上迂回するべき道でもあり、その情念たるやただならぬものを感じた事から、最低でも寺だけは見ておこうと足を延ばしたのでした。

しかし、安全な道を辿ろうと450キロ以上を迂回して山上の寺を目指したのは良いのですが、最後の10キロ弱がハードこの上ない急坂の離合もできない道であったことから、神経をすり減らしながら、ただ、ひたすら山頂伽藍を目指したのでした。

これほどの山上に何故これほどの寺院が置かれたのかを改めて考えさせられましたが、どう見ても南北朝争乱期に思いを馳せざるを得ませんでした。


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気付くのが遅かったのですが ここにも物部の仁井田神社があったのですね…これもこの寺の背景を感じさせます 次回があればですが もし機会があればこの神社を含め訪問したいと思います

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槙 牧山平等院長谷寺といい、臨済宗妙心寺派の末寺で、本尊は十一面観音。伝説によれば、神亀4年に行基によって開山され、はじめは槙 山村の中津尾にあり、のち芸西村に移り、さらに現在地に移転したものといわれ、もとは吸江寺に属した。明治4年廃寺となったが、同12年大修理を加え、同16年再興した。


 寺院の縁起では畿内の長谷寺と同時に建立されたとか、並々ならぬ意図があったようで、それに橘一族がどのように関係しているかは今後の課題です。


当山は山号を豊山(ぶさん)と称し、寺号を長谷寺(はせでら)と言い、正式には豊山神楽院長谷寺と申します。

「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)」と万葉集にうたわれていますように、この地を昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬など美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。

朱鳥元年(六八六)道明上人は、天武天皇の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、のち神亀四年(七二七)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に近江高島から流れ出でた霊木を使い、十一面観世音菩薩をお造りになられました。

徳道上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳(だいとく)であり、それ故に当山は三十三所の根本霊場と呼ばれてきました。

現在の長谷寺は、真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)の総本山として、 また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよそ三百万人といわれ、 四季を通じ「花の御寺」として多くの人々の信仰をあつめています。


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寺院の縁起では畿内の長谷寺と同時に建立されたとか、並々ならぬ意図があったようで、それに橘一族がどのように関係しているかは今後の課題です。


当山は山号を豊山(ぶさん)と称し、寺号を長谷寺(はせでら)と言い、正式には豊山神楽院長谷寺と申します。

「隠国(こもりく)の泊瀬(はつせ)」と万葉集にうたわれていますように、この地を昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬など美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。

朱鳥元年(六八六)道明上人は、天武天皇の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、のち神亀四年(七二七)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に近江高島から流れ出でた霊木を使い、十一面観世音菩薩をお造りになられました。

徳道上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳(だいとく)であり、それ故に当山は三十三所の根本霊場と呼ばれてきました。

現在の長谷寺は、真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)の総本山として、 また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよそ三百万人といわれ、 四季を通じ「花の御寺」として多くの人々の信仰をあつめています。


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土佐の長谷寺の十一面観世音菩薩


 さて、当方が関心を持つのは神仏混交時代の祭神であり、白族の白川白王、天御中主命、大幡主、豊玉彦=ヤタガラスの後裔 橘一族の祭祀が如何なるものであるかを考えましょう。

 まず、境内には弁天様が祀られています。

 弁財天は江戸期に流行した七福神の紅一点インドの水の神様ですが、それは宗像三女神の市杵島姫(瀛ツ島姫)=大幡主の子である豊玉彦の子を弁天様と同一視したものなのです。


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浮島に祀られている神様を見掛けたら普通は弁財天様ともされた瀛ツ島姫とお考えください


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考えていた通り熊野系の祭神でした(熊野は天御中主命~大幡主~ヤタガラスを祭っているのです)


 熊野本宮大社の祭神と同様のものであることがお分かり頂けるでしょう(本宮大社の縁起から)。


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イザナミはイザナギと早々と分かれており(紀の一書を…)、クマノフスミノミコトと名を替え大幡主のお妃になっておられるのですが、イザナミとイザナギが分かれているなどとは言えないために、速玉大社の祭神である大幡主をイザナギの別名とされているようです。

 権力に受け入れられるようにかなり祭神の偽装が行われているようですが、まず、イザナミとは金山彦=カグツチの妹神となる訳です。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)と併せ考えて頂きたいと思います。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 土佐の長谷寺はかつて熊野山岳修験のネット・ワークの四国側の中継地として宮方側=南朝側の重要な拠点となっていたのではないでしょうか。

 これが、肥後の菊池氏、阿蘇氏、五条家…とした宮方と繋がっていたものと思われます。


百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254でご連絡ください


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