スポット208 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上)
20180723
太宰府地名研究会 古川 清久
ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の右のリンケージ・サイトに未知の駅 捄フサがあります。
千葉県在住の女性によるものですが、非常に質の高いトップ・クラスの歴史、地名、神社研究…のブログです。当グループと提携してまだ一年にもならないのですが、我々が最も重視している、千葉、茨城の東関東から福島(阿武隈山系)をカバーして頂ける素晴らしい研究者と期待しています。
私の予備知識は多摩地区、埼玉(元は前玉)の東としての玉前(前は崎、先でもあり東の意味もあるのです 豊後の国東と同様)程度です。
のお二人が百嶋神社考古学の立場を理解された上で研究を進められていますが、新たに強力なスタッフが加わられたと考えています。さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 ②”を掲載しました。
天照と神武が同時代などと言えば通説派の方々は笑い飛ばされるでしょうが、百嶋神社考古学
では、呉の太伯の後裔列島大率の子である神武の腹違いの姉大日孁貴(オオヒルメノムチ)が後に対外的にも卑弥呼と呼ばれ、最後に天照大御神と祀上げられたと知っているのです。
このため、天照大御神の母神を祀る播磨の佐用都比売神社の境内摂社を取り上げたことから、無理を承知で、神武天皇の母神(我々は神玉依姫と呼びますが)を祀る玉前神社のリポートをお願いしたところ、一週間程度で素晴らしいい報告を書いて頂きました。
既に、オンエアされていますので、皆さんも彼女による 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 を他稿と併せお読み頂きたいと思います。
悠久の昔、山の神である鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が海の神である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を見初め、契りを結ばれました。そしてお生まれになった神武天皇をはじめとする神々は、海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通って、九十九里浜まで流れていかれました。
(同社HPによる)
では、お読み頂きましょう。
上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 2018-07-16 Mon 00:14
しばらく御無沙汰しておりました。弟橘姫シリーズまだ途中なのですが、HP「ひぼろぎ逍遥」の古川さんからの御依頼でコチラを先にお届けします。
上総国 一宮 玉前神社 千葉県長生郡一宮町一宮3048 一宮町の町名は上総国の一宮である玉前神社が鎮座していることに由来しています。
以下Wikipediaより。
式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。永禄年間(1558年-1570年)の戦火により社殿および古記録等が焼失したため、創建年代は不明。他の文献等により、少なくとも鎮座以来1,200年以上経過していることは間違いないとされる。
延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』では、上総国埴生郡に「玉前神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
また、上総国一宮として崇敬を受けたとされる。江戸時代、貞享4年(1687年)に現在の社殿が造営される。1871年(明治4年)近代社格制度において国幣中社に列した。1900年(明治33年)と1923年(大正12年)には社殿等の改修が行われた。取材の一回目が雨だったのでリベンジで晴れの日にも行きました。そのため二種類の写真でお届けします。
内陣、神紋は菊だけ
左甚五郎が彫ったという「高砂」の御夫婦、近くで撮りたかった~!さて、御祭神についてですが、古来より諸説ありまして列記すると、「大日本一宮記」高皇産靈弟生産靈一男・前玉命「神名帳頭註」高皇産靈孫前玉命「神社覈録」前玉命「舊事記」振魂尊子前玉命「国華萬葉記」高皇産靈尊の弟生産靈尊の一男(又、系図に振魂命とあり)前玉命などなど。記録では玉前神社の御祭神は「前玉命」で「男神」だと記されています。ですが玉前神社では御祭神を「玉依姫」としています。地元でも昔から玉依姫だと伝えられていたといいます。では玉依姫は玉依姫でも、どの玉依姫なのでしょうか。
神社の御祭神でよくお名前を拝見する「玉依姫」ですが、実は三人いらっしゃるのはご存知ですか?
1人目は神日本磐余彦(初代神武天皇)を産んだ「神」玉依姫。
2人目は天太玉命と雷古要姫イカコヤヒメ(櫛稲田姫)の娘の「鴨」玉依姫。
3人目は鴨玉依姫と大山咋の娘の「活ハエ」玉依姫。
玉依姫たちは3人いるにも関わらず頭文字が抜けているために、どの玉依姫なのかわからなくなり、
御祭神に関して混乱が生じているようです。何故こんな状況になっているのか。
理由は「活」玉依姫の兄弟・賀茂別雷が子孫に崇神天皇と格付けされハツクニシラススメラミコトになっている事に起因しています。
古事記と日本書紀の中では初代神武天皇の功績が崇神天皇の手柄へとすり替えられています。
この捏造を押し通すには崇神の出自が判ってはまずかったのでしょう。
母が「鴨」玉依姫で妹に「活」玉依姫がいることを伏せておきたかった。
そこで奉斎する神社に頭文字を外すように指示したのが真相だと思います。
ちなみに玉前神社のパンフレットでは「玉依姫」は豊玉姫の妹で鵜茅葺不合の嫁としているので「鴨」玉依姫と考えているようです。
しかし百嶋先生は生前、玉前神社の御祭神は「神」玉依姫であるとおっしゃっておられました。
今回の取材で何か証拠を得られるかと期待していたのですが・・・ひよっこの私にはわかりませんでした・・・(ガクリ)そこで玉前神社の歴史、近隣の神社との関係、周辺の地理も含めて調査を行いました。その上で判明した事実から検証したいと思います。まず神玉依姫とは一体何者なのかから。彼女は奴国王家・白川伯王の娘で大幡主の姉にあたります。そして姫氏の血を引く「呉の太伯君」の嫁となり神日本磐余彦=神武天皇を産んでいます。玉前神社の神紋に「八咫鏡に御統の内に前の字」があります。御統ミスマルとは古代の装飾品で現代でいえばネックレスの事です。
この神紋はもしかしたら八尺瓊勾玉を現わしているのかもしれません。御神体も玉だといわれて
おり、赤い玉説、黒い玉説があります。また海から発見した玉を納めたという伝承もあるのですが、その数は8個だったり12個だったり様々です。共通しているのは「御靈代が玉」という点なので、これは間違いないと思います。玉前神社と近隣神社で行われる「上総十二社祭」は、海中から8個の玉を発見した際、平城天皇が霊夢を見て玉を奉斎する六社を創建したことに由来しています。
(現在は12社が参加しています)の六社は玉前神社の外、鵜羽神社(睦沢町岩井鎮座)南宮神社(一宮町宮原鎮座 元は宮原神社)二宮神社(茂原市山崎鎮座)三宮神社(睦沢町北山田鎮座)玉垣神社(睦沢町下之郷鎮座 元は若宮神社)です。この中で別格なのは鵜羽神社と玉垣神社で、鵜羽神社の御祭神は彦火々出見(長髄彦)・豊玉姫・鵜茅葺不合の御一家です。例祭では他より早く祭礼が始まり、当神社のみ行う特殊神事があります。「一宮町史」によると鵜羽神社迎祭(九月十日)鵜羽神社の神輿、この日に玉前神社へ渡御する。
これには鵜羽神社より神職一名が立会い神輿・諸祭具をきよめ祭儀に列するのが古くからの慣例である。鵜羽神社旧神職毛に伝わる文書によると、鵜羽神社は彦火火出見命・豊玉媛を主神とし大同年間に大山祇尊を伊予国越知郡より分霊奉祀する由が記載され、玉前神社を御祖大明神と称し、渡御は竜宮臨幸の儀式を伝えるもので大同元年丙戌八月といわれる。とあります。
またこの日の直会の為に特殊なし神饌を用意します。
一つ目は「オホリ」または「牛の舌」といわれる9センチ×4、5センチぐらいの大きさの扁平状にした餅で12枚作ったもの。二つ目は「かすかみ」という一宮川で獲った鯔ボラを三枚に下ろし酢で鱠ナマスにし、それを濁酒の粕につけたもので一社伝来の神饌と伝えられているそうです。
また「房総志料続編」には「竜形餅」という平形の大小二枚の餅も記載されており、これは化して鰻に変ずると伝えられています。
これらの神饌は古来より矢前の役を継いできた河野姓の家の者が奉献する品を入れてきた俵状の藁つつみに入れて持ち帰り、後で鵜羽神社境内の小池に投じます。
神使の鰐にあげているのだそうです。
現在鵜羽神社の神輿が玉前神社にくる神事は鵜羽神社のウガヤが玉前神社の鴨玉依姫に会いに来るというストーリーになっています。ですが本来は神玉依姫ですから、解釈としては彦火火出見=懿徳がおばあちゃんに会いにきていることになりますね。ではダンナさんである「呉の太伯」はどこへ行ってしまわれたのか?コチラをご覧ください。
すごい彫刻と男千木以下Wikipediaより永承3年(1048年)八斗村太夫野に大国主大神を勧請し奉祭したことが当社の創祀という。その後、大治元年(1126年)里人が海岸で潮を汲んでいると南方沖より白亀が漂着し、その甲羅の上に白蛇がわだかまっていた。
霊感を感じた里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと柄を登ってきたので、これを神と崇め八斗村太夫野の社へ合祀したと伝えられている。
久安3年(1147年)に現鎮座地の関へ遷祀し、治承元年(1177年)千葉氏の祈願所と定められ、宝永5年(1708年)には正一位の極位を授けられ白子大明神の社号を賜った。
近世南白亀郷12ヶ村の総鎮守であり社号は白子町の町名の起こりである。
宝暦12年(1762年)再建の現本殿と、矢大神(随神像)は、白子町の有形文化財に指定されている。
また境内の樹木群は白子町の天然記念物に指定されている。
甲羅の上に白蛇がわだかまっている白亀なんて、まんま玄武ですね。白子神社の側を流れる川の名前も伝説にちなみ、「南白亀川ナバキガワ」といいます。
玄武は北斗星信仰の妙見神と関わりが深いです。
千葉神社の妙見神は童子の姿で玄武に乗った姿で顕現したといいます。
白子神社の北辰大帝は北極星を神格化した神様で星空で唯一動かない星であることから、大陸では皇帝を表す「天皇大帝」と呼ばれました。
他にも「太一」や「妙見菩薩」とも同一視されています。白子神社では「北辰大帝」と称しています。
この「北辰大帝」こそ神玉依姫のダンナさんである「呉の太伯君」ではないかと考えています。
県内にたくさん星信仰の神社がありますが北辰大帝を奉斎する神社はいまのところ白子神社しか知りません。
そして「白子町」という町名の由来にもなった「白子」です。白族出身である神玉依姫に縁があるとしか思えないネーミング。白族の子孫の住む地、という意味でしょうか。
そして白子町を中心に広がる、ある小字の存在に驚きました。一宮の玉前神社から九十九里町まで、海岸線から内陸約1キロ付近に同じぐらいの間隔をあけて八大龍王が祀られています。
八大龍王は天太玉命(豊玉彦)の別名で、神玉依姫は彼から見ると父の姉です。
注目したいのが、その鎮座地の地名なのです。
地籍までは調べられなかったので正確な小字名が不明な鎮座地が多いのですが列記すると、一宮町新地甲字龍宮下 → 諏訪神社がある一宮町一宮字龍宮・下龍宮 → 八雲神社がある一宮町東浪見字龍宮台 → 八坂神社がある長生村一松丙字龍宮台に鎮座、ほか上龍宮・中龍宮 → 海神社長生村一松戊 → 龍宮神社白子町古所字龍宮下・龍宮後・龍宮台 → 龍玉神社白子町八斗字北龍宮台・南龍宮台・龍宮台・龍宮下 → 八龍神社白子町幸治字龍宮 → 八大龍神社白子町驚字龍宮下 → 面足神社がある白子町剃金字龍宮台 → 八龍神社白子町五井字龍宮台 → 八大龍神白子町浜宿 → 龍宮神社白子町南今泉 → 竜神神社白子町牛込字竜神下 → 龍野神社大網白里市北今泉字北龍輪・北龍輪下・南龍輪・南龍輪下・竜神後・竜神前 → 八大龍王九十九里町真亀 → 龍宮神社九十九里町細屋敷 → 龍神社九十九里町粟生 → 龍神神社・龍神社以上19カ所。龍に関係のない神名の神社は、もしかしたら境内社に龍神が祀られているかもしれません。
地図の青いマークをご覧ください。
これは古代の海岸警備地の跡なのではと感じました。
玉前神社が創建された頃ではなく、もっと後の時代の事だと思いますが、厳重な警備をしなければならない理由が白子神社にあったのかもしれません。
等間隔で警備員を置いた「龍宮台」、そこには守るべき「龍王」がいた、なんて想像するとワクワクしますね!!でも神社の創建より北辰大帝が祀られたのは後じゃない?という声が聞こえましたよ!私もそう思っていたのですが、とある事実を知り納得がいったのです。
それが「私幣禁断に類似する禁令」です。
以下Wikipedia。私幣禁断とは、一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。
796年日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。
799年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。811年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。
835年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。なお、1811年伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。このことからわかるのは①北辰信仰は一定の時期、禁止されていた②北斗七星への星信仰は長く禁止されていた③北斗信仰は天皇家の祖霊に繋がる?です。これを知って、あ~だから妙見信仰の粟飯原氏は千葉氏と手を組んだのか~とか、白子神社ももしかしたら隠して奉祀していた御祭神を完全にOKになってからやっと表に出したのかな~とか、表に出すために白亀と白蛇の話が生まれたのかな~とか、でも「白」に拘るところがやっぱり白族だな~とか、いろいろ考えてしまいました。白子神社本殿の神紋は忌部を現わす三光紋。それなのに祀られているのは大宜都姫ではなく男神。やはり神玉依姫のダンナさんの太伯君じゃないかなーと思うのです。そしてトドメの証拠なコチラ。玉垣神社睦沢町下之郷371現地取材に行けていないので画像がありません、スミマセン。
グーグルマップで見ていただきたいです(土下座)平城天皇が創建した六社の一つで元は若宮神社でした。御祭神はなんと「神日本磐余彦」なのです!神玉依姫の御子=若宮だから若宮神社だったのです!何時から玉垣神社に社名が変更になってしまったのか不明ですが、これも正体を隠そうとしての事だと思います。これまでに県内で何度か「神武天皇」の板碑や石碑は見たのですが、大きな神社で、しかも「神日本磐余彦」での奉斎は初めてです。玉垣神社と鵜羽神社は平城天皇が創建した六社及び現在上総十二社祭に参加している12社の中でも別格扱いです。この事実からも玉前神社と深く関係する神社であることが読み取れます。
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