592 古川と言う家系について ⑥
20180318
太宰府地名研究会 古川 清久
人とは死が近づいてくると“自らが何者であってどこに行くのか…と言った事に関心が向かう”と言われています。また、そもそも民俗学とは死臭の漂う学門とも言われます。
もしかしたら古代史に関心を寄せる人々にもその傾向が強いのかも知れません。
さて、当家はまがりなりにも台湾で成功しつつも一文無しで引き揚げてきた一族であり、一応は私で36代目とか聴かされたこともあります。
ところが、家系を遡ると不思議と長男が跡を継いでいない例が非常に多いと言われた事を思い出します。
つまり、長男は進取の気質が強いのか、妙な事をやって家を出て行き、娘が養子を取って跡を継いだとか、男子が跡を継いだとしても次三男になる事が多い家系だと言うのです。
この話を聞いたのは二十年も前の事で、当時は聴き飛ばしていたのですが、ようやく古川家が下級としても橘一族の末流だった事が分かって来ると、少しずつながらもその謎が解けて来たのでした。
理由は簡単です。橘氏には「女系橘」と言われる風習や習俗から制度とさえも言えるような仕組みがあるからなのです。
それが末流の古川家にも伝搬していたとしたら、古川家が橘一族であるという弱々しい証拠だなどと勝手な想像をしているのです。
橘一族には命婦制(ミョウブセイ)とか乳母(メノト)とい言った色濃い仕組みと関係がありそうなのです。
乳母(うば、めのと)とは、母親に代わって子育てをする女性のこと。
かつて、現在のような良質の代用乳が得られない時代には母乳の出の悪さは乳児の成育に直接悪影響を及ぼし、その命にも関わった。そのため、皇族、王族、貴族、武家、あるいは豊かな家の場合、母親に代わって乳を与える乳母を召し使った。
また、身分の高い人間は子育てのような雑事を自分ですべきではないという考えや、他のしっかりとした女性に任せたほうが教育上も良いとの考えから、乳離れした後、母親に代わって子育てを行う人も乳母という。
また、商家や農家などで、母親が仕事で子育てができない場合に、年若い女性や老女が雇われて子守をすることがあるが、この場合は「ねえや」、「ばあや」などと呼ばれることが多かった。
日本における神話上の起源としては、『日本書紀』神代下の別説に、「彦火火出見尊が婦人を集め、乳母(ちおも)、湯母、飯かみ、湯人を決め、養育し、これが世の中で乳母を決め、子を育てることの始まりである」と記述している。…中略…
律令時代の日本では、一度に多産をした家には、朝廷から乳母一人を支給されていたことが、『続日本紀』などに記述されており、例として、文武天皇4年(700年)11月28日条、「大和国葛上郡の鴨君粳女(かものきみぬかめ)が一度に2男1女を産んだため、(以下略)乳母一人を賜った」の他、和銅元年(708年)3月27日条には、「美濃国安八郡の人、国造千代の妻である如是女(にょぜめ)が一度に3人の男子を産んだので、稲四百束と乳母一人を支給した」などと細かに記録されている。
日本の場合、特に平安時代から鎌倉時代にかけて「めのと」と呼ぶ場合には「うば」よりも範囲は広く、「養育係」の意味もあり、女性だけではなく夫婦でそれに当たるケースが多い。例えば『奥州後三年記』の「家衡が乳母千任といふもの」などでは千任は男性である。また、養育係の男性を「傅(めのと)」とも呼んだ。
乳母に世話を受ける養い子にとって、乳母の子供は「乳母子(めのとご)」「乳兄弟(ちきょうだい)」と呼ばれ、格別な絆で結ばれる事があった。軍記物語においても、主人の傍に乳兄弟が親しく仕え、腹心として重宝される情景が少なからず描かれている(例:『平家物語』の木曾義仲と今井兼平)。源頼家のように、乳兄弟(比企氏)を優遇したために実母方(北条氏)に疎まれるということもあった。
イスラム教圏では乳兄弟は特別な関係とされ、実の兄弟と同等とみなされる。 このため、シャリーアでは乳兄弟にあたる男女の結婚を禁止しているほどである。
その関係は人外の伝承にもおよび人間がグールの母親の乳を吸うとグールと義兄弟となるという伝承がある。
ウィキペディア(20180419 19:11)による
‘60年2月23日、皇太子さまがご誕生。美智子さまは手紙につづられたとおり、乳母制度も廃止し、皇室で初めて母乳だけの育児を実践された。
東宮侍医長を務めた佐藤久氏が撮影していた写真を、33年ぶりに入手し、公開したのが『33年間、秘められていた“皇室史上初”写真!』(1636号・’93年3月2日号)。ご公務がお忙しいときなどは前もって搾乳され、冷凍保存したものを、哺乳瓶で授乳されることもあったという。
『女性自身』
命婦という言葉は、元は中国の『周礼』において内外の官として命夫・命婦の官が存在したこと
が記されており、ここに由来があると考えられている。ただし、日本における命婦はその名称のみを採用して、その内容も全く異なるものとなった(命夫にあたる男官・呼称については採用されなかった)。
命婦は『職員令義解』の中務省条に規定があり、五位以上の女性を内命婦(うちのみょうぶ)、五位以上の官人の妻のことを外命婦(げのみょうぶ)という。但し、命婦は官職ではなく、所属官司の職掌に奉仕する地位であり、官位相当や定員はなかった。また、女王の場合、五位以上の位階なくとも内命婦に列せられた。奈良時代までは宮中に仕える女性は命婦を含めて宮人と称したが、平安時代以降は宮人と命婦は区別されるようになる。
命婦の奉仕する対象は、内侍司の務めである、天皇の儀式或いは神事に限られるようになり、朝賀や即位式などにおいて奉仕する女性は褰帳命婦、威儀命婦、立春の際の水取命婦、春日祭の際に奉仕する博士命婦などが置かれた。摂関政治がはじまる頃には、命婦は中臈の女房の称号となり、父や夫の官職に因んで、少将命婦、少輔命婦、中務命婦、小馬命婦などと称するようになり固有名詞となっていった。
ウィキペディア(20180419 19:27)による
命婦
① 律令制で,婦人の称号の一。五位以上の位階を有する婦人を内命婦,五位以上の官人の妻を外命婦(げみようぶ)という。平安中期頃からは,中級の官位の女官や中﨟(ちゆうろう)の女房の総称となった。この種の命婦は,父や夫の官名によって,靭負(ゆげい)の命婦・大輔(たいふ)の命婦などと呼ばれた。
② 中世,稲荷(いなり)の神の使いである狐(きつね)の異名。
辞典・百科事典の検索サービス - Weblio辞書
この乳母、命婦制が最も顕著だったのが県犬養橘三千代以来の橘一族だったのです。
そして、古川の系統も橘氏の末端を汚していたとすれば、妙に腑に落ちるのです。
そもそも、出家のような形で神社を調べて廻っていること自体がいわば瘋癲の寅さんであって、家系はそっちのけで、妹が家を仕切り娘が跡を取るといった事が見えて来ると、橘一族に特有の女系橘の血が私達にも注がれている事が見えて来るのです。
子供が産まれたとして、父親にはその子が本当に血を分けたものかどうかなど全く見えないのであって、母親だけは誰の子であるかが分かるのです。
また、一族に於いても、両親を看取り財産分与に関与するのも妻や一族の娘(姉妹)達であって、末娘が両親を看取り、財産を守ると言う制度は、古代に於いては非常に合理的だったはずなのです。
仮に、政争、戦乱に敗残したとしても、兄弟は抵抗を封じるために殺されますが、娘は残され新たな勝利者に取り込まれながらも最後は、子を支配する娘が力を発揮するのであって、一族の力は維持され何時かは復活するのです。
それが、乳母命婦制だったとすれば、我がフーテンも多少は許されるのではないかと思うものです。
今回は妙な話をしましたが、皇統を維持する宮室にこの制度が散見され、一部には武家にも認められた事は、列島にもそのような民族が入っていた事を意識せざるを得ないのです。