598 遠い古代に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)
20180331
太宰府地名研究会 古川 清久
今回の話は、これまでスポット版で数本書いてきたものの概略を分かり易くまとめたものです。
後段の数本をお読み頂ければそれで済むのですが、さらに概略をまとめてみると鮮明に見えて来るのではないかと思うものです。
事の発端は野波神社の発見でした。五年ほど前に太宰府地名研究会の中島 茂氏が発見して十名ほどで現地にも入ったのですが、その後その重要性が分かり、古川が以前から注目していた旧背振村桂木の葛城一言主命を祀る神社との関係が見えて来るに至り、現佐賀市の旧三瀬村の水没した野波の里に神功皇后のご両親が住んでいた(従って神功皇后もこの地で産まれている)事が見えて来たのでした。
佐賀県の脊振山中にある野波神社(左)と付近にある下ノ宮(右)です。
現在は北山ダム(1950~)に水没した事によって移転した後、さらにゴルフ場建設によって再移転を余儀なくされた神社ですが、この縁起には付近にしたご両親を祀る下ノ宮の事が書かれていたのです。
詳しくは以下の数稿を読んで頂きたいと思います。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
489 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! “宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”
ひぼろぎ逍遥
スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート
スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々
スポット172 姉川と妹川という名を付した人々と息長系氏族
スポット173 亀屋佐京
メンバーの宮原誠一氏は、水没した野波の里で生活していたご夫婦の間に産まれたのが神功皇后であり、後に上宮として祀られたのが下ノ宮(皇后となったため下ノ宮と呼ばれた)であったのではないかとされているのです。
いずれにせよ、桂木の一言主命神社の存在から葛城氏の一族が旧脊振村にいた事は推定されますが、縁起からは同じ脊振山系の旧三瀬村辺りに息長宿禰もいた事も推定され、葛城氏も息長氏もともに脊振山系に展開していた可能性があるのではないかと考えられるのです。
当然ながら、通説派の方々は“何を馬鹿げたことを…”と取り合わないでしょうが、ではお尋ねしますが、皇后のご両親である息長宿禰と葛城高額姫を単独で祀る神社が何故この地に存在するのか、また、全国にそのような神社が存在するのであればご教授願いたいと思うものです。
当然ながら、通説派の方々は“何を馬鹿げたことを…”と取り合わないでしょうが、ではお尋ねしますが、皇后のご両親である息長宿禰と葛城高額姫を単独で祀る神社が何故この地に存在するのか、また、全国にそのような神社が存在するのであればご教授願いたいと思うものです。
メンバーの宮原誠一氏は、水没した野波の里で生活していたご夫婦の間に産まれたのが神功皇后であり、後に上宮として祀られたのが下ノ宮(皇后となったため下ノ宮と呼ばれた)であったのではないかとされているのです。
いずれにせよ、桂木の一言主命神社の存在から葛城氏の一族が旧脊振村にいた事は推定されますが、縁起からは同じ脊振山系の旧三瀬村辺りには息長宿禰もいたとも考えられ、葛城氏も息長氏もともに脊振山系に展開していた可能性があるのです。
まず、葛城氏と言えば、カツラギノナガエソツヒコが頭に浮かびますが、今でも「長江」という小字が脊振村に残っています。また、「ソツ」はソシモリノの「ソ」であり、「牛津」(佐賀県小城市牛津町)ではないかと考えています。また、ここで申し上げておきますが、背振山頂にある航空自衛隊のレーダー・サイトの直下には「伊福」という地名もあるのです。
伊吹山の「伊吹」とは「伊福」の置換えの可能性があるのです。
少なくともこの二つの氏族は佐賀県の脊振山系から福岡県うきは市の耳納山系に移動している様に見えます。
それは、巨勢川という名の川が佐賀市を流れ、同じ名、同じ表記の巨勢川がうきは市から久留米市を流れ筑後川に落ちているからです。
さて、通説では神功皇后の一族(息長氏)は近江にいたとされます。
事実、敏達天皇のお妃となった息長広姫の陵墓などが滋賀県長浜市の姉川沿いにあるのですが、それはまだ後の時代の事なのです。
ここで、佐賀県神埼市と福岡県うきは市に「姉川」と「妹川」という河川名、地名が存在している事をお知らせしましょう。
地名には戸籍がなく、僅かに文献に拾えるものだけが価値あるものとして採用されるものの、通常はまともに取り扱われる事はありません。
勿論、そう言っておけば、権威が維持できる事から学芸員や教育委員会関係者といった方々は火中の栗を拾う事はしません。
そのような事は十分に承知の上なのですが、当方には権威などは一切関係がないため、故)百嶋由一郎氏が“95%が嘘”と言い切った「古事記」などを根拠に地名の起源を説明されていれば良いだけの事です。
この姉川地名は菊池氏の分流が肥前へ展開し現地の姉川地名を称したものと考えていますが、定かではありません。
かつて、このダムが造られた北風の入る谷では多くの蹈鞴製鉄が行われていました。
三十近い○○多々良地名があったと言われています。
現在はダムの底に沈んでいますが、記録はダム事務所に保存されているかもしれません。
また、久留米市の東隣のうきは市には妹川地区があり、伊福さんという鍛冶屋さんも沢山住んでおられる(た)のです。この人々の後裔が滋賀県の伊吹山(伊福の置換え)に移り住んだと考えられるのです。
つまり、伊福さんという鋳物師が住む川が妹川(イモカワ、イモゴウ)ではなかったかと思うのです。
太宰府地名研究会によるトレッキング(佐賀県神埼市脊振町桂木)葛城朝の起源か…
筑後地方の人にとって、戦国期の草野氏の「草野」という地名はかなり重要です。
その久留米市草野町に対応する地名(長浜市草野町)が近江の姉川流域にもあるのです。
勿論、姓名としての「草野」は不思議にも福島県に集中していますが、肥前起源とも言われる耳納山の麓に蟠踞した草野氏は、戦国期でその支配領域を失います。しかし、この移動は地名が成立する程度の千五百年以上前に起こったはずなのです。
もう一つ対応する例をご紹介しておきましょう。
高良大社と言えば、筑後地方で知らぬ者のない大社ですが、これに対応すると思われる高良神社が彦根市にもあるのです。
高良神社 (コウラ)カーナビ検索 滋賀県彦根市鳥居本町2464 祭神 武内宿禰命
しかし、この程度の話ではなく、どうみても決定的と思える例が、地名と神社に認められるのです。
さて、ここから太宰府~久留米を中心とした九州王朝の観点から少し考えて見ましょう。
久留米と言えば高良玉垂命(実は仲哀死後の神功皇后をお妃として産まれた仁徳天皇以下五人の皇子の父神であり、藤原から第9代とされた開化天皇なのです)を祀る高良大社が頭に浮かぶのですが、その高良の置換えと思われる甲良町(甲良町は 近畿地方北東部、滋賀県東部にある犬上郡の町 滋賀県内にある地方自治体のうち 豊郷町に次いで面積が小さい があるのです)。
高良神社に対応する甲良町があるだけじゃないかと思われるかもしれませんが、甲良神社がある上に、隣の豊郷町には安自岐神社を持つ安食という地区がある事に気付いたのでした。
「高良」と「甲良」が対応しているだけならば、高知県東洋町甲浦のように(ここにも高良神社があります)他にもあるのですが、この甲良町の隣の安食の「阿自岐」まで揃っているとなると、どう考えても高良大社のある高良山の麓に居た阿自岐の一族が移動した痕跡地名としか考えようがないのです。
ここでは太宰府の阿志岐(福岡県筑紫野市)地名を紹介しましたが、古代、有明海が久留米市の北側まで大きく入っていた1500年前頃まで、高良大社の南麓まで阿志岐であったと言われているのです。
山川校区は、耳納山地の高良山麓から筑後川の南側で、久留米市の東部に位置し、山と川に囲まれて、緑豊な人情味あふれる安心・安全なまちです。地名は明治6年、山麓の阿志岐村と川沿いの神代村の合併の際、両村の立地を組み込んで名付けられました。による
甲良神社 カーナビ検索 滋賀県犬上郡甲良町尼子1℡0749-38-2462
一目瞭然ですが、高良玉垂命は完全に消され祭神の入れ替えが行われていますね。
もうひとつご紹介しておきましょう。
甲良(こうら)神社は天武天皇の奥方である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。旧本殿は徳川家光の命により建立されたもので、社殿の彫刻などが室町時代の作風を色濃く表しているとして文部省の特別保護建造物に指定され、昭和35年には国の重要文化財に指定されました。
建物の背の高さと規模が小さいながらもしっかりとした造りが特徴です。屋根の線や建物の配置などから伊勢神宮に似ているとも言われています。例年4月15日に行われる甲良神社の太鼓祭は2メートルもある大太鼓が目を引き、人気があります。
古賀事務局長の洛中洛外日記 第147話 2007/10/09 甲良神社と林俊彦さん
先週の土曜日は、滋賀県湖東をドライブしました。第一の目的は、甲良町にある甲良神社を訪れることでした。甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。
ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。
わたしは次のようなことを考えています。それは、天武が起こした壬申の乱を筑後の高良神を祀る勢力が支援したのではないかという仮説です。天武と高良山との関係については、拙論「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第9集)で論じましたので、御覧頂ければ幸いです。
この甲良神社のことをわたしに教えてくれたのは、林俊彦さん(全国世話人、古田史学の会・東海代表)でしたが、その林さんが10月5日、脳溢血で亡くなられました。まだ55歳でした。古田史学の会・東海を横田さん(事務局次長、インターネット担当)と共に創立された功労者であり、先月の関西例会でも研究発表され、わたしと激しい論争をしたばかりでした。その時に、この甲良神社のことを教えていただいたのです。7日の告別式に参列しましたが、棺の中には古田先生の『「邪馬台国」はなかった』がお供えされており、それを見たとき、もう涙を止めることができませんでした。かけがえのない同志を失いました。合掌。
古賀達也氏が見たのは尼子1の甲良神社の方ですが、滋賀県犬上郡甲良町法養寺にももう一つの甲良神社があるのです。
甲良神社 カーナビ検索 滋賀県甲良町法養寺
本殿は、流造(ながれづくり)で、檜皮葺(ひわだぶき)、蟇股(かえるまた)、組物(斗拱(ときょう))、木鼻(きばな)などの様式から江戸時代(1603~1868)初めごろの本殿建築の好例とされています。 境内には「町の木」であり、「湖国百選」に選ばれた高さ26メートル、750年以上の年を経た欅(けやき)があります。 木鼻:などが柱の外側に突出している部分で、この部分に繰形(くりがた)や彫刻をしています。 甲良町HP
以下は阿自岐神社です。
阿自岐神社 カーナビ検索
滋賀県犬上郡豊郷町安食西663 ℡0749-35-2743
この神社に祀られているのは、アジスキタカヒコネの神で阿自岐氏のことです。阿自岐氏はかなり高貴な百済系の渡来人で、この庭園づくりに、日本に漢字を伝えた王仁氏を招いたといわれています。それはなんと今から1500年も前の事ですから、まだ庭などなかっただけに、阿自岐庭園は古代豪族の憩いの場となっていたのでしょう。これは日本最古の庭園の一つともいえます。また、この地域が安食と呼ばれるルーツは、やはり阿自岐氏からきたと思われます。阿自岐氏が近江に来て美しい庭園を築き、心豊かに安らぐこの郷に住んだと聞いて訪れると遠く千数百年前、古代豪族の美の世界へロマンが広がります。
豊郷町HP
【延喜式神名帳】阿自岐神社 二座 近江国 犬上郡鎮座
【現社名】阿自岐神社
【住所】滋賀県犬上郡豊郷町安食西663
【祭神】味耜高彦根神
(配祀)道主貴神 天児屋根命 保食神 須佐之男命 天照大神 大物主神 応神天皇 宇迦之御魂神 大己貴命 猿田彦神 埴山姫神
もうひとつ思いつく地名対応があります。
佐賀県東部~筑後川左岸と琵琶湖の地名対応を考える時始めに頭に浮かぶのは前原と米原です。
旧脊振村、旧三瀬村から北側の福岡県に下れば、現在糸島市となった前原町(旧前原市)こちらは「マエバル」と呼ばれていますが、伊吹山の麓、関ケ原の手前の東海道新幹線の米原駅の米原(滋賀県米原市米原)ですね。どう見ても近江にはこちらの人々が入っているとしか思えないのです。