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600 花の舞鎮の先に鎮座する式内社 “京都府舞鶴市の阿良須神社”

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600 花の舞鎮の先に鎮座する式内社 “京都府舞鶴市の阿良須神社”

20180404

太宰府地名研究会 古川 清久


前ブログ 599 花に浮かぶ八幡神社 “山口県山口市阿東の徳佐神社”ではこのように書きました。


 このところ北部九州から近江に移動した人々の具体的な姿を描く作業に追われています。

既に、以下のブログを公開していますのでご覧になった方もおられるでしょう。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

489 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! “宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”

ひぼろぎ逍遥

スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート

スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々

スポット172 姉川と妹川という名を付した人々と息長系氏族

スポット173 亀屋佐京

598 遠い古代に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)


 研究会のスケジュールを縫って再び、近江に足を踏み入れることにしました。

それは、伊藤正子女史の丹波丹後の調査に随行する前についでに近江の調査をやってしまおうと思ったからでした。

こうして、おっとり刀の調査旅行が始まりました。

日田市を4216:00に出発したのですが、関門橋を渡り王司パーキング・エリアで最初の車中泊、二区間目の小月インターチェンジで降りれば500円未満で済みますので、渋滞を避けて国道2号線から9号線で山陰に入りました。


 以来、日本海側の無料の高速道路区間(山陰は元片山鳥取県知事のおかげ)は利用するも、基本的には一般道を利用し750キロを走り、現在は福井県小浜市の手前の高浜町(高浜原発の高浜です)の道の駅の温泉施設の休憩室でブログを書いています。


600-1

天草市高浜


 その前に、この高浜と小浜が気になります。

有明海の出口の早崎瀬戸を挟んでこの二つの地名があるのです。

彼らが、西に船を出して対馬海流に乗りさえすればこの舞鶴、高浜、小浜、敦賀…には直ぐに辿り着けるはずです。

ある時、意を決した若者の集団が数十隻の船で丹後半島を越え越の国を目指したとすれば、自らの故地の地名を付けた可能性は高く、これらの地名付合がそれに起因するとするのはそれほどでたらめな想定でもないでしょう。


600-2

もう近江は目と鼻の先です。

小浜市から入れば安曇川辺りまでは直ぐですので、明日から近江の調査に入ります。

以下は福井の高浜と小浜地名です。


600-3

600-4

さて、桜満開の舞鶴の鎮守府=舞鎮(佐世保は佐世鎮、呉は呉鎮、横須賀は横鎮)のイージス艦を左に、暫く走ると阿良須神社があります。




600-5阿良須神社

舞鶴市小倉フル宮13(平成22729)

東経1352559.45秒、北緯352839.85秒に鎮座。

 この神社は27号線に面して鎮座しています。社頭には二基の鳥居が見え、はじめは二基共この社の鳥居かと思っていましたが、左側がこの社の物で、右側の鳥居は富(布)留山神社の物でした。

この二社は地番も違えば、氏子地域も異なります。

 入口の社号標には「郷社阿良須神社」と書かれ、鳥居の額には「正一位一宮大明神」とあります。鳥居を潜り、石段を数段上がると境内で、広々と明るい境内左には境内社が配され、正面に神門のような感じの拝殿と、それに連なる回廊が建立されています。

 回廊は正面だけに建立されており、回り込むと本殿のすぐ近くまで行くことができます。本殿前にはこの地域には珍しい狛犬がおり、「式内阿良須神社」の社号標も立っています。流造りの本殿は彫刻が施された素敵な社殿でした。本殿右手の丘の上からは御神水が湧き出ているようです。

 背後の青葉山から続く鎮守の杜が、雄大さと静けさ、清々しさを感じさせる、神寂びた素敵な神社でした。

 御祭神:豊受大神一座、相殿神:多岐都姫命、市杵島姫命、多紀理姫命、三座、木花咲夜姫命(殿内秘座二宮神)

 祭礼日:10月末の日曜日 境内社:神明神社、二柱神社、桜王神社

 由緒:当社は崇神天皇十年丹波将軍道主王が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠と云う兇賊を征伐し給う時、豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りされたのを創祀とする。降りて天武天皇白鳳十年九月三日柳原の地に社殿を建て春日部村の氏神阿良須神社と奉称す、遡りて元年大友皇子の御謀叛の時越前阿須波の里へ忍び給う高市皇子は当社に幸し天下鎮静を大神に祈り御歌を詠じ給う。

 曇る世に柳ケ原をながむれば 神の恵みや晴るる朝霧 風来ぬる青葉の山の煙りたへ 行先遠き雲の上かな 御染筆奉納にありたり爾来朝家の御崇敬厚く殊に延暦二十四年正一位を賜わる。堀川院御子無きをうれいて当社に祈願を寄せ給いしに感応ありて宗仁親王誕生あらせられければ、寛治元年正一位一宮大明神の御額奉らる御筆は羽林飛鳥井卿の御真蹟なり。かくて当社は古来より子宝を授け安産に奇霊なる神徳を現わし給うと云う。貞元年中当国に叛賊起り国内乱れし時、藤原保昌賊徒平定を祈願し当社に拝す。観応元年三月十五日神田五反政所尭基寛正三年神田一反代官河嶋主計充秀寄進す。而して慶長五年九月七日兵燹に罹りて本社、二の宮、拝殿、御饌殿、神楽殿、中門回廊、宝物等悉く焼失した。翌年細川忠興社を布留山の地へ遷す、即ち今の社地なり。その後、明暦四年三月二十四日、文政十二年六月三日 両度本殿を改築す。

 (例祭) 九月三日が古例なれど現在は十月末の日曜日

 (式年行事) 御屋根洗式十ケ年 近年行われず

 (所有文書) 南北朝室町時代文書十三通(一巻)一宮大明神縁起(一巻)同造立願文(一巻)大般若経(一巻)を蔵し大般若経を除き京都府登録文化財並びに舞鶴市指定文化財である。



600-6による

思えば、「事代主のブログ」氏から最初のお電話を頂いたのもこの神社でした。


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