スポット200(前) 赤村の超巨大古墳 ⑬ 神功皇后は佐賀県の三瀬村で産まれた
20180530
太宰府地名研究会 古川 清久
先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。
再掲
現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。
赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。
丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。
また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。
=2018/03/20付 西日本新聞朝刊=
今般の赤村の前方後円墳としか思えない巨大古墳状丘陵に関して、町興し村興し宜しく「卑弥呼の墓」といった噂が飛び交っているやにも聴いています。
古代史の世界に多少とも関わった者として、地域振興のためのマヌーバとして、一時的に「卑弥呼の墓」…といったデマに近い話が流れる事が全く悪い事とは思いませんが…(絹も鉄も出土しない奈良県桜井市の巻向遺跡や巻向古墳を卑弥呼の大城とか埋葬墓などとするような大嘘よりは余程真面なのですから)、この実に素人臭い卑弥呼の墳墓説には多少の気恥ずかしさを越え暴走にしか思えません。これについては通説派の考古学協会なども“どうせ素人ですから…”などと馬鹿にしきっている事でしょう。
行政や教育委員会や文化庁…といった悪の牙城が、これまで敵視続けて来た「九州王朝論」の探究などに踏み込むはずもなく、いずれはうやむやにしてしまう事でしょう。そんな事は鼻っから分かり切っているのですが、何やら田川郡内でお祭騒ぎでもやれば新たな展開が見えるとお考えなのかも知れません。
ただ、彼らは邪馬台国畿内説などと言ったトンデモ説に利権を見出しただけのさもしい人々なのであって(中には、九州にも月額300万円などという法外な給与を貰っているインチキ考古学者もいるらしいのです)、そもそも学問とか真実の探求などと言った事を期待すること自体意味がないのです。
これについては、ひぼろぎ逍遥スポット180 赤村の超巨大古墳 ③ 発見と列島の穴掘り考古学の未来(跡宮)辺りを再度お読み頂きたいと思うものです。
ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)には百嶋神社考古学の影響を受けた多くの研究者によるblogがリンクされています。
その中でも、宮原誠一氏の「宮原誠一氏の神社見聞諜」の最新号(現時点)に重要な論稿が掲載されましたのでご紹介を兼ねて全文を掲載したいと思います。同サイトを是非お読み下さい。
北部九州には神功皇后伝承が色濃く残されていますが、「日本書紀」に書かれた嘘話を真に受けていては古代の深層にはまったく辿りつく事などできません。宮原氏は抑制して書かれていますが、他の研究などと併せ考えれば正しい者と考えています。是非お読み下さい(古川)。
宮原誠一の神社見聞牒(025)
平成29年(2017年)10月06日
No.25 神功皇后生誕の地・佐賀背振の野波神社
1.王家の谷の野波神社と下ノ宮
佐賀県背振山南麓は古代の王家の子を養育するのに適した地であった。嘉瀬川上流の川上渓谷、城原川上流の背振渓谷があり、それらの渓谷の上流は北山ダム付近に集まる。その背振渓谷は、往古、素戔嗚(スサノヲ)系の支配領域と言われた。
かつて、北山ダム湖に沈む前の「野波(のなみ)の里」は神功皇后生誕の地という伝承がある。そこには、神功皇后を祭神とする野波神社があり、皇后(息長足媛おきながたらしひめ)の両親を祭神とする下ノ宮があり、この地域に息長足媛の伝承が残っている。
息長足媛の系図を百嶋神社考古学神代系譜からみると、父・息長宿祢(おきながすくね)と母・葛城高額媛(かつらぎたかぬかひめ)となっており、息長宿祢は父・建南方(たけみなかた)と母・奈留多姫(なるたひめ)であり、建南方は父・天忍穂耳命(あめのおしほのみみのみこと)と母・瀛津世襲足姫(おきつよそたらしひめ)であり、瀛津世襲足姫は素戔嗚尊の子であり、息長宿祢は素戔嗚直系の血筋である。葛城高額媛も素戔嗚尊四世の孫である。息長足媛の父母は共に素戔嗚系の流れとなっている。
伝承からして、息長足媛は父母が住む佐賀背振の野波の里で生まれ育ったと考えることができる。
しかし、神社由緒には神功皇后伝説特有の付会がみられ、野波の里は皇后生誕の地として可能性があるに留め置き、関連神社を紹介します。
ここ十年程で、二、三度訪問した経験がありますが、当時は「神功皇后伝承」には関心がなく、野波神社、下ノ宮の事は承知していましたが、他の問題(米田良三氏が「長谷寺」で書かれた三瀬村に長谷寺があったという提起との関係も不明なまま)、棚上げ状態にしていました(古川)。
場所が分かり難いと思いますので、お知らせしておきたいと思います。
福岡市から三瀬トンネルを抜け三瀬村に入ると、杉神社から大瀬の大桂に向かう一帯に、九州王朝倭国の長谷寺があり(杉神社正面の鏡神社に長谷寺への桟橋の橋脚が存在した)、現在の北山ダムに沿い東に進んだ辺りに野波神社があり、下ノ宮は北山湖の湖底に沈んだのでした。
神功皇后は滋賀県米原辺りの息長氏の一族であろうとか、近江出身であろうなどと通説に沿ったデタラメがまかり通っていますが、北部九州の神功皇后伝承は「紀」に合わない部分が多々ある事は知られていますし、どうやら、肥前の神功皇后伝承は唐津を除いて消されているようです。
神功皇后を追い求められる方もこのような明瞭な伝承が残されている事を知るべきでしょう(古川)。
神殿の千木は主祭神が女性神であることを示す。
米田氏は以下のように述べている。「『源氏物語』の舞台の中心は倭国の時代の九州であった。京は大宰府都城であり、京から出掛けた 〝初瀬の御寺〟 も奈良ではなく、九州北部にあったはずである。私は佐賀県神埼郡三瀬村にあったと考えている」
この部分は私を大いに刺激し、生まれて始めて長谷寺を訪れるきっかけとなった。現在の長谷寺の本堂、観音様は517年に完成し、721年に現在地に移築されたという米田説を信じた上での訪問である。訪れた時の印象は 〝感動〟 の一語に尽きる。時のたつのも忘れ、1時間以上大悲閣前の舞台でボーっとしていた。もちろん、現地の解説ボードを信ずればこうはならない。観音像は今までに6回焼失し、現在のものは室町時代に作られた7代目であり、本堂は江戸時代のものであると記されている。巨大木造彫刻十一面観音像の制作年代の説明に約1000年の開きがあるのだ。
その後も先の引用部分のことが心の隅に引っかかり、2002年8月、三瀬村の観光協会に「村で一番古いお寺は?」と問い合わせたところ、反田という集落に長谷山観音寺という寺があったが、昭和38年、子供の火遊びが原因で焼けてしまったということであった。
ネーミングからすると、幻の長谷寺は昔ここに建っていたに違いないと思い、2007年11月、日帰り弾丸ツアーで現地を訪れ、地元のお年寄りに焼失前の寺の様子を聞いた。
この長谷山観音寺の件と、その西にある「宿」という名の集落がじつは椿市ではないか、と米田氏に電話したのだが、当時、氏は幻の長谷寺発見については著作で述べている程には意欲的ではないようであった。これほどまでに著者にプッシュし続ける自分は日本のシュリーマンになったような気分であった。
後でわかったことだが、この寺は1521年、神代大和守勝利と言う人が伝説の長谷寺に憧れ創ったものであるらしく、私の努力は空振りに終わった。
しばらくして、米田氏から倭国長谷寺の所在地が同定できたと連絡が入った。国土地理院の地図を凝視しているうちに閃いたというのだ。そこは「源氏物語画帖」玉鬘の巻、『枕草子』、『住吉物語』の描写にぴったりマッチするというのだ。
ここで混乱しないように言っておかねばならないのは、3作品ともオリジナルは倭国の時代のものであるということである。『源氏物語』は一昨年「千年紀」と大騒ぎしていたが、正確には、もう350年ほど遡り、現代の作家が江戸時代初期の物語をパクるようなことが平安時代に行われていたのだ。
倭国長谷寺跡の発見 - AB&JC PRESSによる