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スポット200(後) 赤村の超巨大古墳 ⑬ 神功皇后は佐賀県の三瀬村で産まれた

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スポット200(後) 赤村の超巨大古墳 ⑬ 神功皇后は佐賀県の三瀬村で産まれた

20180530

太宰府地名研究会 古川 清久


2.野波神社の吉田藤雄氏の神社案内板について

吉田藤雄氏の神社案内板の最後の部分の1月7日の「ドンド焼き」の記述では、仲哀天皇は神功皇后と武内宿弥の間に生まれた子と思わせるような記述であり、仲哀天皇が野波の里で生まれたかのようなっている。
しかし、野波神社の由緒、下ノ宮の由緒からすると、皇后の両親、息長宿祢と葛城之高額媛が野波の里におられ、皇后が1月7日の「ドンド焼き」の日に生まれたと、捉える方が自然ではなかろうか。また、1月7日の「ドンド焼き」の朝、皇后が産気づかれて、仲哀天皇が生まれたとされるのは、ほかの皇子とも取れるが、誉田別皇子が筑前宇美の地で出産された以外に信頼できる伝承はない。
別の考え方として、この話が新羅征討後のものであれば、周囲に大雀命・菟道穉郎子が祀られており、開化天皇と皇后の皇子の出産ととれ、九体皇子の内の三名?の皇子が野波の里で出産されたと考えることもできる。
また、新羅征討のおり、筑肥を通過とは、朝倉市蜷城の美奈宜神社の由緒からすると、筑後川の大善寺の往来と考えられるが、「筑肥通過の折、この地に寄られて・・・」という伝承は神功皇后伝説特有の付会ではなかろうか。また、神功皇后の時代に「ドンド焼き」の行事があったであろうか。どうも、神功皇后特有の伝説が神社由緒に記載されると、由緒の信頼度が落ちるような気がしてならない。
ということで、神社案内板の最後の部分は認識の誤りとみるが、この由緒の全てを否定するものではありません。


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3.神功皇后伝説

日本書記の神功紀で、荷持田村(のとりたのふれ)の羽白熊鷲(はしろのくまわし)討伐のおり、筑紫野を神功軍が通過時、「旋風がにわかに吹いて皇后の御笠が吹きとばされ、時の人はそこを名づけて御笠(みかさ)という」、「羽白熊鷲と層増岐野(そそきの)で戦闘となり、ついにこれを滅ぼした。皇后は近臣に'熊鷲を取ることを得て心安らかになった'と言ったので名づけて安という」の地名説話がある。
しかし、御笠地名の近くには御笠山(宝満山)があった。
戦闘勝利した「安」については、秋月の入口の旧安川村に「安川」が流れ、ここ一帯を「安野」といった。この時点では、熊鷲は討伐されていない。敗退して秋月盆地に陣を建て直している。旧安川村の中心付近にある老松神社の社伝では、ここを「御府の森」といい、この神社は大国主一人を祀る。この神社の近くの北の山裾の楢原に「奇志神社」という聞きなれない秘密めいた神社がある。大国主を主祭神とするが、社紋は神功皇后の紋があり、熊本県山鹿市の「志々岐阿蘇神社」と同じ神額の額縁を持っている。この志々岐阿蘇神社は大国主、建南方を主祭神とする。「奇志」の名は、この志々岐阿蘇神社の「志々岐」をもじったように見える。また、「志々岐」は「ししき」「そそき」と訛り転化しているようにも聞こえる。
この「岐」は「城、柵、木」と同意語で、志々の柵、そその柵、つまり、砦、陣所ではなかろうか。その「そそき野」で戦闘の激突があった。層増岐野は、ここ、旧安川村から続く旧甘木市一帯をいうのではなかろうか。
神功皇后伝説の「御笠」、「安」は語呂合わせで、後世の府会のように思えるのだが、ここでの私の話も語呂合わせと取られそうです。


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「志々岐」の名を持つ他の神社  志々岐神社 福岡市早良区内野


祭 神 神功皇后、十域別王命、稚武王命(二人は仲哀帝の弟でヤマトタケルの皇子)


百嶋神代系譜・素戔嗚尊・神功皇后 神代系図(8)


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4.野波神社、下ノ宮の概要

 野波神社

所在地 佐賀県佐賀市三瀬村大字杠(ゆずりは、中谷) 1358-41
祭 神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)
由 緒(要約)西暦268年に創立。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地に寄られたと云う。明治43年村内の無格社が整理統合され、祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。
昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。

下ノ宮
所在地 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭 神 息長宿祢命・葛城之高額媛命
由 緒(要約)創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるが、本宮よりも上流に祀られ「下ノ宮」というが、息長足媛命が皇后になられてより、立場違いにより、後に「下宮」となったのであろう。
野波神社の例祭時、当宮との間に皇后の御神輿の上り下りの行事が行なわれている。


5.資料・佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」HPから

①「三瀬村史」による野波神社
社号 野波大明神
祭神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)
應神天皇の御代、西暦268年に勧請された神社で当地では最も古く、棟木札銘(昭和28年焼失)には次のような記録が残されていた。
 文中2(1373)再興。
 長禄2(1458)再建。
 元亀2(1571)再々建。
 宝永元年(1704)再々々建。
 天保14(18433月、1575年祭施行。
今から1700余年前の古墳時代初期に勧請されたことになる。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地にもおいでになって、宇土の大石に腰をおろして休息せられる時、一帯の風光を眺められて「最も能き野奈美哉」と仰せられたので、この一帯を野波の里とよぶようになった。また、大石の前の河で御裾を麗がれたので、その地を渡瀬の手洗松と言い伝えられた。その御遺跡に御社を営み、古くから神埼佐賀七山の宗廟として崇め、上下の信仰が厚かった。七山というのは、杠・関屋・小副川・菖蒲・畑瀬・松瀬・名尾の七山である。
室町時代、嘉吉2年(1442)の初春には、阿波の国の住人杠日向守が下向して当地の領主となり、神田五町歩を寄進して年々の祭祀を盛んにした。その後、天正年間(15731591)の頃には、神田等多数の領主から寄進があって、年中盛大な神祭りが行なわれたという。降って江戸時代の延宝2年(16742月には、杠権右衛門尉藤原吉満が、「七山宗社」の額と「宝物」数種を寄進して祭祀を行なった。
近代になって、明治61031日村社に指定され、同431013日に神饌弊帛料供進の指定を受けた。また、同年には村内の無格社が整理統合され、それらの祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。
昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。このとき焼失したもの。
  「七山宗廟野波大明神」-拝殿入口の額
  「七山宗社」-弊殿入口の額「銚子」二、「瓶子」 三、何れも木製

  「表札」-神社の伝説口碑を記したもの
御神体は古来「グミの木」と言われていたが、陶器製のものだけが焼け残っていた。
昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。海や河川にかかわりの深い祭神淀姫神の霊示が具現されたのであろうか、ダム湖水を眼下に見おろす中谷山の現地に社地社殿が構築され、同年12月遷座式が盛大に執行された。
淡島明神 野波神社の境内には、別に淡島明神を祭った小社殿がある。土地の人は「あわしまさん」とよんでいる。何時の頃勧請されたかは明らかでないが、淡島信仰は和歌山市の淡島明神を中心として広まったと言われ、江戸時代中期の元禄年間ごろから、淡島願人とよばれる一種の物もらいが、諸国を巡歴して婦人病に効験あらたかな神として信仰をすすめた結果、民間に広く普及し、とくに花柳界の女性の間に広く信仰されるようになった。
和歌山市加太町にある加太神社が淡島明神として著名で、祭神は少彦名命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)の3柱で、婦人病に霊験あらたかとされ、縁結び・医薬・海上鎮護の神として信仰される。
野波神社の淡島明神も、もちろん婦人病に効験あらたかとされ、安産・長寿・海上河川鎮護の神として、山内山外の人々に信仰されてきたのである。
出典:三瀬村史p710

②「三瀬村史」による「下ノ宮」
社号 下ノ宮 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭神 
息長宿祢命・葛城之高額媛命
創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。
下宮が本宮よりも上流に祀られているところに不可解な点もあるが、祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるので、上流に祀られていても不思議ではない。
野波神社の例祭のときには、現今でも当宮との間に御神輿の上り下りの行事が行なわれている。
出典:三瀬村史p712


青字の明朝体は宮原誠一氏の原文、黒字のゴシック体は古川による挿入文、赤字の明朝体AB&JC PRESSによる。

この野波神社、下ノ宮の伝承が荒唐無稽な話として否定される方は多いでしょう。しかし、滋賀県からやってきているはずだとおっしゃっておられる高名な方々のお話に根拠があるとお思いでしょうか?只の推定でしかなく何もないのですよ!それならこの現地伝承が何かを御説明頂きたいものです(古川)。

 

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研究目的で百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください


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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200300万件のアクセスはあるでしょう。


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