extra025 宮地嶽神社と安曇磯羅 ⑤ “志賀海神社と大川風浪宮”
20150219
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
安曇磯羅を考える時には単に住吉神社と走るのでなく、安曇磯羅を祀っている神社を考える必要があります。今は、住吉神社も三神を祀るところが多くなり神社側でさえも分からなくなっているのですが、ただ、基本はそうですと言う程度の意味です。
百嶋先生からは、下関の住吉神社は元々表筒男尊を祀る神社とお聴きしていますので、ここでは、下関の住吉神社、志賀海神社、大川風浪宮の三社を考えてみま しょう。それでも祭神には非常にバラつきがあります。恐らく、志賀島、大川風浪宮、下関の住吉神社は主神として安曇の磯羅を祀る神社でしょう。
① 下関住吉神社 式内社 長門國豊浦郡 住吉坐荒御魂神社三座 並名神大
長門國一宮旧官幣中社
御祭神
第一殿住吉大神・荒魂 第二殿応神天皇 第三殿武内宿祢命 第四殿神功皇后 第五殿建御名方命
日本書紀によれば、神功皇后三韓外征の際、「吾和魂は玉身に服いて寿命を守り、荒魂は先鋒となりて師船を導かん」と神託。凱旋の折には、「吾荒魂は穴門の山田邑に祀れ」と神託があり、当社に祀られた。
「住吉開基造営等之覚書」によると、応神天皇・武内宿祢・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、筑紫の宇美からの勧請。建御名方命は 後世に奉祭。「長門国一宮略記」には、応神天皇・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、武内宿祢・建御名方命は、朱雀天皇の承平年中の奉祭。「長門国志」で は、応神天皇・神功皇后は、聖務天皇の神亀年中、筑前より勧請。武内宿祢・建御名方命は、勧請年不詳。 五殿ならんだ本殿は国宝。応安三年(1370)大内弘世寄進による。九間社流れ造・正面五ヶ所・千鳥破風附檜皮葺。拝殿の額には、『住吉荒魂本宮』とあ る。境内西側の検非違使社の前に『神籠石』。
墨江三前大神
すみのえのみまえのおおかみ
別名
墨江神:すみのえのかみ
住吉大神:すみのえのおおかみ/すみよしのおおかみ
住吉三神:すみのえさんしん/すみよしさんしん
三筒男神:さんつつをのかみ
上筒之男命:うわつつのをのみこと
表筒男命:うわつつのをのみこと
磐土命:いわつつのみこと
中筒之男命:なかつつのをのみこと
中土男命:なかつちのをのみこと
赤土命:あかつつのみこと
底筒之男命:そこつつのをのみこと
底土命:そこつつのみこと……
航海の神、漁業の神、海洋神としての性格を持つ。さらに柿本人丸、衣通姫と合わせて和歌の神・和歌三神としても有名。
伊邪那岐神が死の国の穢(けがれ)を祓うため、筑紫日向の橘の小門の阿波岐腹で禊(みそぎ)した時、 水底で滌ぎ給うたときに底筒之男命、中程で滌き給うたときに中筒之男命、水の上で滌がれたときに上筒之男命が化生した。
『古事記』では、底筒之男命は底津綿津見神の次に、中筒之男命は中津綿津見神の次に、上筒之男命は上津綿津見神の次に生まれた。
『古事記』では、底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江三前大神と呼ばれるが、 墨江とは住之江であり住吉のこと。 『日本書紀』には、住吉大神とあり、住吉の神として祀られている。
上記の禊において、同時期に化生した神直日神・大直日神・伊豆能売神(あるいは八十枉津日神)と、底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神を合わせて九柱の神を祓いの神とする場合がある。
「筒」はツチと同じで、ツが助詞、チは美称とされているが、その起源は定かではなく、 土(垂加神道)、伝う(鈴木重胤)、星(吉田東伍)、津之男(山田孝雄)、対馬の豆酘(つつ)、帆柱の筒などの諸説がある。
綿津見三神は阿曇連の奉祀する神々だが、記紀には墨江三前大神が奉祀する氏族が記されておらず、 『先代旧事本紀』には津守連によって祀られた神とある。
神功皇后に神懸りして、応神天皇の誕生を予言した神。さらに神功皇后の三韓征伐を守護した神。
(公式HPがないため「玄松子」による)
古 来、玄海灘に臨む交通の要所として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神の総本社」とたたえられ、海の守護神として篤(あつ)く信仰されてい る。御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が筑紫の日向の橘(たちばな)の小戸の阿波岐原において禊祓(みそぎはらい)をされた際に、住吉三神と共に御 出現された綿津見三神で、神裔阿曇族(しんえいあずみぞく)によって奉斎(ほうさい)されている。御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特 に嫌い、諸々の穢(けがれ)・厄(やく)・災(わざわい)・罪をはらい清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右す る御神威を顕現(けんげん)されている。当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。2世紀(遅くとも4世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝山に遷座、あわせて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀(ほうし)されたと伝えられる。むかしの社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元冦の役(げんこうのえき)など国家の非常の際に嚇々(かくかく)たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正十五年(1927年)には官幣小社の処遇をうけている。志賀海神社略記より
③ 大川風浪宮
御由緒
本官は神功皇后が新羅御新征よりの帰途(西暦一九二年)軍船を筑後葦原の津(大川榎津)に寄せ給うた時、皇后の御船のあたりに白鷺が忽然として現われ、艮(東北)の方角に飛び去りました。皇后はその白鷺こそ我が勝運の道を開き給うた少童命の御化身なりとして。白鷺の止る所を尾けさせられ、其地鷺見(後の酒見)の里を聖地とし、武内大臣に命じて仮宮(年塚の宮)を営ませ、時の海上指令であった阿曇連磯良丸を斉主として少童命を祀りました。(旧暦十一月二十九日)
古来より風浪の灘を守護し給うにより風浪を社号とし代々の久留米有馬藩主の崇敬厚く国司賢将始め筑後国一円の信仰をあつめ、俗に「おふろうさん」と呼び親しまれ勅命社として千八百余年の由緒をもつ著名の大社であります。
磯良丸神社
風浪宮外苑の一隅に阿曇磯良丸を祀る社があります。
磯良丸は、干珠満珠をもって皇后に従い船団の海上指揮をとった航海熟達の海士で風浪宮初代神官としてこの地にとどまり代々その後を襲ぎ現宮司を以って第六十七代を数える一系であります。
磯良丸に仕えた船頭のうち七名も此地に生業を得て当時の船名(興賀丸、六郎丸、古賀丸、石橋丸、徳丸)を襲ぎ宮乙名と称して恒例の神事に奉仕します。磯良丸は海洋族の酋長として、当時大陸との交易により大陸文化を導入し日本の農業、工業基他全般の産業を興して日本開国の基を築き、ここ大川の地の木工産業発祥の守護神として信仰されております。
今日船名に「××丸」と丸を附するのは磯良丸の丸に起因するものであります。
とりあえず三社をご覧頂きましたが、安曇宮司が神職を務める志賀海神社に安曇磯羅が祀られていないはずはありませんし、志賀海神社の参道を真っすぐ南に伸 ばすと大川風浪宮の正殿(元宮があったと思われる隣接する旧社地)を貫く、と、安曇宮司(風浪宮)ご自身も言われていましたので、この二社と百嶋先生が安 曇磯羅を祀ると言われた住吉神社の祭神を見ても大きなバラつきがあることがお分かりになったと思います。
しかし、大川風浪宮の少童命(二人は女神)の意味が解読できておらず実態を掴めないでいるのが実情です。
ただ、大川風浪宮にしてもどうも安曇磯羅は門番の様に立っており、別途、阿曇磯良丸を祀る社があることからすれば、やはり、磯羅=表筒男命は住吉の神の臣下と考えて良いように思えます。
ここでは触れませんが、はるかに年上でも、中筒男命=第10代崇神天皇(博多の住吉神社の祭神)も高良玉垂命、神功皇后ご夫婦にとっては遥かに格下の(しかし遥かに年かさの)臣下だったと言われていましたので、当方は安曇磯羅=表筒男命は高良玉垂命ではないとしておきたいと思います。
大川風浪宮に関しては、少童命の実体が掴めないでいるため一応保留しますが、初見以来、相殿御祭神とされている息長垂姫命、住吉大神命、高良玉垂命が本来の祭神であり、風浪宮では、元々、初代住吉神=ウガヤフキアエズノミコトを祀っていたのではないかと考えています。
ただ、大川風浪宮には幸神なる神が祀られており、それが高良大社下宮の右殿の神第8代孝元天皇(高良玉垂命の父神)=幸神であることから、ウガヤフキアエズノミコトか孝元天皇であろうとしておきます。
また、志賀海神社については、本来の祭神が入れ替えられていると考えています。
最後に大阪住吉大社について概括しておきます。
百嶋先生からも“こちらの神社は底筒男命を祀る本物の住吉様”との話を聴いています(大阪の「打上神社」も高良玉垂命を祀るものとして重要ですが今回は取上げません)。
④大阪住吉大社
祭神底筒男命(そこつつのをのみこと)第一本宮に祀られている神様。中筒男命(なかつつのをのみこと)第二本宮に祀られている神様。表筒男命(うわつつのをのみこと)第三本宮に祀られている神様。息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)[神功皇后(じんぐうこうごう)]第四本宮に祀られている。
底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神を合わせ住吉大神と呼ばれているようである。
由緒、神徳 神功皇后が新羅遠征を行ったとき、住吉大神が現れ、その加護により大いに国威を発揮したため、戦勝と海上交通安全を祈って住吉大神を田裳見宿禰(たもみのすくね)に祀らせたという。これがこの神社の創始とされているようである。
後に、神功皇后自身も『私も大神と一緒に住む』といって祭神に加えられたといわれている。住吉大社は氏神としての性格を持っておらず、従って、太古の昔から朝廷との関わりが深かったという。
住吉大神は禊祓(みそぎはらい)の神格をもって出現したとされており、神道で重要な『お祓い』を司る神とされている。また、海上安全の守護神、和歌の神とされており、産業、文化、貿易の祖神として信仰されているようである。
神徳は上述のように、漠然とした分かり難いものから、具体的に分かり易いものまで多岐にわたっている。お祓いの神様というのも我々素人にとって何となくつかみ所がないような印象を受ける。
公式HPがないため「古墳のある街並みから」というサイトから引用させて頂きました。
当方は、10年ほど前に実見していますが、このサイトでも取り上げられている様に、四殿四神で男女の千木がきちんと区別されているのが印象的でした。
面白いのは、“後に、神功皇后自身も『私も大神と一緒に住む』といって祭神に加えられたといわれている。”という話ですが、無論、底筒男命は高良玉垂命であり神功皇后と後に夫婦となったのですから、その事実を側面から証明した証言とも言えそうです。
勿論、その『私も大神と一緒に住む』とした舞台は当然にも九州であり、百嶋由一郎氏は福岡県那珂川町の裂田神社において高良玉垂命となる前の若きワカヤマトネコヒコと仲哀死後の神功皇后が暮らしたと言われていました。
関心をお持ちの方は「ひもろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 015 天御中主神社が福岡県那珂川町片縄に現存する 017 那珂川町に「天御中主神社」が存在する訳 018 「日本書紀」の裂田の溝(サクタノウナデ)“裂田神社に神功皇后と一緒にいたのは誰か?”…をお読み下さい。
ただし、「三男月神底筒男ノ尊 皇后、夫婦トナリ玉フ、」の三男は実際には兄弟ではないため、彦火々出見=山幸彦 その子であるウガヤフキアエズ 安曇磯羅=表筒男命の流れが嫡男としての地位を確保するための工作と読むべきとされていましたのでクレグレもご注意を。
余白がありますので、最後の嫡男日神ノ垂迹表筒男尊…ですが、インデックスには豊姫と夫婦となりと書かれています。
この点についてはかなりの長文になりますが、久留米地名研究会のHPから「淀姫」をお読みください。
右の「宮神秘書」の切れた部分以降は、「表筒男尊ハ、皇后の御妹豊姫ト夫婦ナリ、此御子ヲハ、大祝日徃子尊ト申也、此ノ底筒男尊 同表筒男ノ尊二人ハ、皇后ト友如皇宮ヲハシマス、三男月神ノ垂迹底筒男尊、皇宮ニ住玉フ間、位ヲスヘリ、…と書かれています。
この部分は事実であったのか、それとも格式が低いウガヤ系(山幸系)がフレーム・アップしたものか判別は着きません(百嶋先生にはお分かりだったのでしょうが)。
ただ、神功皇后の妹である豊(ユタ)姫を妃としていることから、神功皇后を経由して考えれば義理の兄弟にはなるわけで、もしかしたら安曇磯羅が高良玉垂命から実質的な兄弟(義兄弟)として優遇されていた可能性があることはあながち否定もできないのです。
さて、「宮神秘書」には神功皇后の二人の妹の一人が宝満大(ホオリ=「宮神秘書」では略字が使われており記載できません)に、一人が川上大明神トナリ玉フとしています。
これだけならば穏やかなのですが、百嶋最終系譜では、この豊姫は逆賊河上タケルの妹だったとしているのです。
「淀姫」ではそこまで踏み込んで書いていますが、まだ、謎は解けません。