20150815
久留米地名研究会 古川 清久
大峡谷の底を流れる残された清流の崖の上には楽園があった(上)大菅集落(下)
日向の高千穂と言えば神話の故郷として知らぬ人のないものですが、訪れた方はご存知の通り、町全体が断崖絶壁の上に成立しています。
ひところ前までは、一旦は谷底まで降り、険しい坂を登りつめようやく目的地にたどり着いていたのですが、今や、十数戸しかないような小集落にも大橋梁が掛けられ、秘境としての神秘性も神聖性も失われつつあるように思います。
と、言ってもそれは外部の人間の傲慢さでしかなく、僻陬の地に生まれ育った人には有難い事この上ないのであり、“何を言っているんだ”と直ちに抗議されることでしょう。
しかし、仮に十数戸の人々に、その大橋梁の建設費の十分の一どころか百分の一も分配するから移住して欲しいと提案すれば、住宅は元より、農地から墓地まで整理して大半が移住を決断される事になるでしょう。
それは、ほとんどが高齢化した限界集落予備軍とでも言うべきものでもあるからです。
簡単に言えば、何百億も掛けて大橋梁を建設するか、何億かで集落の移転を促進するかの選択になるのですが、その判断はこの山上集落の意味を考えた後にする事にしましょう。
仮に高地性集落と言えば別の意味になりますし、外に適当なものも無い事から山上集落としておきますが、言っている意味はお分かりになったと思います。
では、何故、彼らの御先祖様達はこのような山上高地に住む事を選択したのでしょうか?
二十歳の時に初めて高千穂に入った時以来の課題でした。
勿論、このような山岳地帯の上部に好んで住む理由は安全性でしかなく、「続日本紀」元明天皇和銅元(708)年 に「山沢に亡命し、禁書を挟蔵して百日自首せねば、また罪すること初めのごとくせよ」…
とあるように、古代から、険しい政争に敗れた敗残者や政治犯の多くが人の寄りつかない山奥の小平地に自らの生き延びる土地を求めたと理解してきました。
この後に落人と呼ばれる一群の人々は、単に平家の落人に止まらず、物部氏の残党、奈良麻呂の変、南北朝争乱期の残党から多くの人々が追手から逃れるために峻険な地を目指したはずなのです。
勿論、それとは別に、戦乱を逃れ、また重税を逃れ、さらには自由を求めて、多くの人々がある種の難民として山上楽園を目指したと考えてきました。
ただし、これは一般論としての話であり、そのまま高千穂周辺に充てて良いかは分かりません。
ここから、この高千穂、日之影の話しに引き戻したいのですが、そのような基本的な理解を受け容れた上で、それで良いかと言えばそうとも言えず、疑問とも一抹の不安とも言うべきものが残っていました。
政争を逃れるにせよ戦乱を避けたにせよ、その必要性は長くても数世代に過ぎず、いずれは通常の民に還元してしまうはずであり、好んで条件の悪い地に住む必要はないのではないかと思うのです。
一つは、まず、生存資源を得るためには穀物の生産量が得られる場所が必要になります。
そう考えれば直ちに分かるのですが、日照量が半減する谷底に住む必然性は全くなく、水さえ得られれば、断然、山上に住むべきであり、むしろ好んで住み着いているとも言えるのです。
逆に言えば、山上こそが安全な一等地であり、谷底とは単なる交易地や物流の中継基地に過ぎないのでした。
ここから話が飛びますが、高千穂、日之影の大峡谷を免じて許して頂くことにしましょう。
二つは百嶋由一郎氏言われていた事なのですが、この高千穂の地の特殊性とも言うべきもので、天孫族が降臨する以前、この地(古くは三田井)は、島原半島から有明海東岸の熊本、阿蘇と併せて高木大神(高御産巣日神)
の領域だったと言われていたのです。
してみると、元々、無人で未開の地があったのではなく、それなりの支配者はいたはずであり、その人々がどこにどのような神や神々を祀っていたのかを調べる必要が出て来たのです。
このことなくしてはこの山上楽園にどのような民族、氏族が住み着き、どの順番で入って来たのかは分からないのです。
そこで、ひとまず結論を先送りにして、どのような神々が祀られているのかを少しずつ調べて行くことにしたいと思うのです。
高千穂神社や天岩戸神社は何度も足を運んでいますし、どなたも訪れておられるはずですので、この際省くとして、ようやくこの川遊びから離れて高千穂、日之影のフィールド・ワークに入る事が出来るようになりました。
分かっていたつもりではいたのですが、実際に大峡谷の底で最も深い淵に潜ることしか考えておらず、この吐の内の集落の上にこれほどの戸数の集落があるとは考えてはいませんでした。
直ぐ裏側にも見立を越える大峡谷があり、鹿川(シシカワ)神楽で知られた鹿川の大集落があるにも関わらずです。
神社を調べれば、谷底と山上集落の違いは自ずと明らかになるはずであり、今回はそのための第一歩でした。
その切っ掛けとなったのは農水省によって破壊された川に対する憧れが最終的に破壊されたからでした。
今でも、ダムの上流などに清流は残されています。しかし、そういった上流の川は水温が低く泳げません。
清流でなおかつ泳ぐのに適した川はほんの僅かしか残されていません。たまにでも尺鮎と一緒に泳げるような豊かな川を破壊した林野庁には怒りしか感じられません。
彼らの悪業のおかげで日之影の山上楽園に気付き、この地の神々に目が向いたのは、どうやら彼らのおかげだったようです。