237 夢の大吊橋と白鳥神社
20150824
久留米地名研究会 古川 清久
九重町の夢の大吊橋
カーナビ検索 大分県玖珠郡九重町大字田野1208番地(これは吊橋へのアクセス)
大分県九重町に夢の大吊橋という人工的に造られた観光地があり多くの人を集めています。
景勝地九酔峡の真上に造られた観光用の人道橋ですが、建設以来900万人が渡ると言う繁盛ぶりで、まずは、産業に乏しい町にとっては救世主のように見えていることでしょう。
九酔渓の険しい道を登りつめ、筌の口温泉などに良く足を向けていたのは十年ほど前まででしたが、個人としてはこのような自然環境に直接的に手を入れる大規模な開発行為を苦々しく思うことから、また、渋滞と人込みを嫌ってこれまで一度も足を向けませんでした。
今回、甥にあたる優秀な青年がやって来て久住に行ってみたい、この吊橋から震動の瀧を見たいとの事から半分は渋々で吊橋を渡る事にしたものです。
従って、この恥ずべき900万人の一人に成り下がったのですが、最終的に渡ることにした理由は橋を渡った北方地区に鎮座する白鳥神社を見たいと思ったからでした。
白鳥神社は大吊橋の駐車場から400メートルもの仰々しい橋を渡り、対岸の北方地区に鎮座しています。
勿論、この吊橋を渡ることなく車でも同社に参拝はできるのですが、温泉目的でしかこの地に足を踏み入れた事はなかったため、今まで訪問した事はありませんでした。
橋にも白鳥神社の幟が飾られ参詣を呼び込んではいるのですが、橋を渡りさらに400メートルを歩き白鳥神社まで足を向ける人はありません。
道路地図には白鳥神社として搭載されていたため十分知ってはいたのですが、それほど大きな神社ではないと侮っていたのです。しかし、実際に現地を踏むと堂々たる社殿が目に飛び込んできました。
白鳥神社と言えば直ぐに民俗学者谷川健一の「白鳥伝説」が頭に浮かびます。
ヤマトタケルと白鳥伝説については多くの論者がそれぞれお書きになっていますので、ここでは触れません。
鹿児島から北部九州、そして畿内から東日本へと延びる冶金、製鉄の流れの中にこの集落も置かれていた時代があったのかも知れません。
白鳥神社参道(上) 同社参拝殿(下)
04 白鳥社の神罰 白鳥社伝説
周囲の山を庭と見立て川の瀬音を静め、夕日をも呼び戻すなど勢力を我が手中にした朝日長者は、何時しか自然の恵みを忘れ去り、したい放題に我侭な暮らしをしていた。
そんなある日、栄華をきわめる長者の跡取りとなる長女に、筑後から婿を向かえて祝宴が行われていた。
一族一門から村人里人と集まるものは数知れず、飲めや唄えの無礼講が十日十夜と続き舞や踊り等様々な余興が出されていたが、その種も尽きてしまい、何か変わった趣向をと考えた長者は、神前を見ると大きな鏡餅が目に付いた。
「そうだ、あれを的にして弓を射ろう」そう考えた長者は配下の者に鏡餅を下ろすよう命じた。
しかし 「餅は神聖なものそれを的にする等とは罰が当りますよ」と一族の者は長者を引き止めたが、今の長者は耳をかす様な人ではなく、神前から鏡餅を引きずり下ろすと的にして弓を引き矢を放った。
すると、矢が餅の中心に刺さった途端に人々の見守る中で、餅は一羽の白い鳥となって空高く飛び立って行った。宴を張っていた皆は不安を感じ てざわめきはじめ「今の鳥は長者の氏神である白鳥神社の使いの鳥ではなかろうか、神が我々を見捨てたのかも知れない」と、一同は酔いもさめ神罰の恐ろしさ におののき、長者一行は身を清め白鳥神社に向った。七日間神社に篭り一心不乱に祈った。
そして満願の日、境内に文字の書かれた一枚の白い羽が舞い落ちて来た。
「今日の日は西の山端にかかるとも明日は照らさむ天の八重雲」此れを見た一同は、やっと愁眉を開き神霊が帰座したと思っていた。
しかしそれは勘違いで、この頃から長者一門は衰運を向え、何時しか長く緩やかな下り坂を転がるかの如く家運は衰退していった。食物を粗末にした白鳥社の神罰であった
羽根に書かれていた文字は、今日の太陽が西に沈み、明日からは厚い雲に覆われた暗い日が続くであろう」
と言う神からの予告であった 人は太陽が照らなければ作物は育たず、食料不足で生きられない
長者は権勢を持ったことで、以前 山も田畑も枯れ、男池で雨乞いをし 自身が苦悩したことも忘れ去り、横暴を振舞った 「親の罰はじきばつ(直罰)、神の罰はじねんばつ(自然罰)」 と言うことわざがある
、親は直接罰するが、神は自然と当人に気付かせるという意味である 権力を持った者は我欲におぼれ、他をないがしろにし全てを思うがままに操ろうとする「弱者を苦しめる者は、我が身を滅ぼす」 神は長者一族に、罰として「これからは人生の暗い日が続くであろう」と告げたのである
餅、それは今も昔も変わりなく、貴重な食品で有りながら「神聖なるもの」と言えるのではないだろうか。
現代でも、正月には欠かせない飾り物であり、祝い事等にも必ず使用されている。
この白鳥社伝説では、餅、即ち食物全てが如何に大事で粗末にしてはならない物かを伝えている。
HP 「大分の伝説 長者伝説・大蛇伝説・湖伝説」 より
そもそも久住高原の長者原という地名は朝日長者と呼ばれる開発王に因むとされています。
白鳥神社もあることから、どうも筑後の匂いがすると思っていましたが、HP「大分の伝説 長者伝説・大蛇伝説・湖伝説」には、
事実、千町無田は明治20年代まで荒地だったそうな。その荒地を開拓したのが旧久留米藩士「青木丑之助」が率いる、筑後川下流域水害被災農家による入植者達だといわれている。
とも書かれています。朝日長者という名は久留米の高良大社の麓の旧参道に置かれた山川町の皇子宮の九人の皇子の二番目の祭神の朝日豊盛命を思わせますし、白鳥神社を奉祭する人々が入っているように見えます。
朝日長者を祀る朝日神社が九重町長者原にもありますので、それを見もしないで書くのも憚られますが、ここでは、白鳥神社の主祭神のヤマトタケルがどのような背景を持った神であるかについて、百嶋由一郎先生の神代系譜から見る事に留めておこうと思います。
ただ、朝日長者社が境内社とされていることからして、権力の移動が二度ほど起こっている様に思えます。
もともと居たのは白鳥神社の奉祭氏族で、後に筑後から入って来た朝日長者の支配を受け、その力が宇佐神宮の勢力によって抑えられた結果、白鳥神社が蘇ったように見えるのです。
祭神の配置がそれを物語っています。
大分である事から応神天皇は着け足しでしょうが、肥後の球磨郡、肥前の東部から筑豊に掛けて目立つ白鳥神社です。この久住連山の高原地帯の一角にも鎮座していたのです。
ここまで思考の暴走を重ねましたが、初めは無謀とも思える仮説を立て、誤りが判明すれば戻るだけの事なのです。失敗を恐れてはなりません。
そう考えた理由はこの白鳥神社の神殿の造りを見たからでした。
ご覧の通り神殿の外に覆いを掛け、直接の風雨を受けない様に設えられているのです。
これまでにも何度か触れましたが、この造り方をするのが筑後物部氏であり、鞘殿(サヤデン)と呼ばれる形式です。
全国的な展開も見せていますが、筑後地方に集中しています。
豊前、豊後でも散見されますが、宇佐神宮のお膝元の百体社にもその痕跡が見とめられます。
百嶋由一郎最終神代系譜
ご覧の通り、スサノウとクシナダヒメという神代史を飾るスーパー・スター同士の間に産まれたナガスネヒコの姉であるオキツヨソタラシヒコメと阿蘇の草部吉見の間に産まれたのが天足彦であり、その子がヤマトタケルになるのです。
スサノウ系=ナガスネヒコ系は神武天皇に弓を曳いた一族であり、そのことがヤマトタケル伝承にも影を落としていますが、ここでは、この認識を持って頂ければ良いのではないかと思います。
火山地帯の一角に白鳥神社=ヤマトタケルを見出すのは合理的ではあり、その子仲哀の子とされる応神別王が併祀されるのも着足しとは言え納得はできるのです。